モロタイ島の戦い
モロタイ島に揚陸中のアメリカ軍のLST
戦争:太平洋戦争
年月日:1944年9月15日 - 1945年6月下旬
場所:モロタイ島(モルッカ諸島)
結果:連合国軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
初期:川島威伸
逆上陸後:守田義輝、大内競チャールズ・P・ホール
モロタイ島の戦い(モロタイとうのたたかい)は、太平洋戦争後期にインドネシア東部モルッカ諸島のモロタイ島で守備する日本軍と上陸したアメリカ軍主力の連合国軍の間で行われた戦いである。アメリカ軍の作戦名はトレードウィンド作戦(Operation Tradewind)。アメリカ軍は、フィリピン反攻作戦の第一歩として、モロタイ島を占領し飛行場など大規模な基地を建設した。 太平洋戦争中、ニューギニア方面から反攻作戦を行ってきたダグラス・マッカーサー将軍を指揮官とするアメリカ陸軍主体の連合国南西太平洋方面軍は、1944年後半ついにフィリピンへの侵攻に着手することにした。その第一歩としてフィリピン方面への航空作戦の拠点の確保が必要となり、ニューギニア西方に位置するモルッカ諸島のモロタイ島が攻撃目標に選ばれた。また同時並行でパラオ諸島のペリリュー島とアンガウル島も、アメリカ海軍主体の連合国中部太平洋方面軍が担当して攻略されることとなった。(この際の戦略決定の経緯についてはフィリピンの戦い (1944-1945年)#アメリカを参照。) 一方、1942年にオランダ領東インドの一部であったモロタイ島を占領した日本軍は、以後、あまり有力な守備隊を配置していなかった。1944年にモルッカ諸島方面の防備強化が図られ、第32師団が派遣されたが、守備の重点は平野が多く飛行場に適した隣のハルマヘラ島に置かれた。モロタイ島には、一旦は第32師団の2個大隊が分遣されて飛行場建設を進めたが、水はけが悪いために建設は放棄された。この2個大隊はハルマヘラ島に撤収し、後には川島威伸中尉を指揮官とする第2遊撃隊所属の2個中隊(主に高砂義勇兵)を配置しただけであった。なお、松尾寛少尉を指揮官とするモロタイ島海軍見張所もあり、電探(レーダー)2基を配置していた。 連合軍の上陸時、島には9000人の現地人が住んでいた。島民に対する宣撫工作を行うために、連合軍の上陸部隊には、オランダ軍の民政班が加えられた。 連合軍は、アメリカ陸軍地上軍4万人、アメリカ陸軍航空軍1万7000人の圧倒的兵力を投入して、モロタイ島の攻略に着手した。1944年8月から9月にかけて、モロタイ島及びペリリュー島への上陸支援のため、フィリピン各地やハルマヘラ島、セレベス島など周辺地域で、機動部隊搭載機などによる航空撃滅戦が行われた。ダバオ誤報事件も重なった結果、日本側の航空戦力は壊滅した。日本軍に上陸意図を察知されないよう、モロタイ島自体への空襲や航空偵察は限定的なものとされた[1]。 9月15日早朝、アメリカ海軍第77任務部隊は、オーストラリア海軍艦2隻を含む巡洋艦5隻や護衛空母6隻などにより、約2時間の事前砲爆撃を上陸地点に対して行った。8時30分、LST45隻などの輸送船団により、アメリカ陸軍第31師団の3個連隊戦闘団をもってモロタイ島への上陸戦を開始した。日本軍地上部隊の抵抗はなかったが、泥やサンゴ礁が揚陸の妨げとなった。 9月18日頃から日本軍の地上反撃があったが、いずれも撃退され、10月4日までにアメリカ軍は島内の制圧を一通り終えた。アメリカ軍の記録によると日本兵104名が戦死し、13名が捕虜となった。アメリカ軍の損害は戦死・行方不明31名、負傷85名だった[2]。
背景
戦闘経過
連合軍の上陸モロタイ島の米軍作戦図