モレク
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18世紀のモロク像。Johann Lund Die Alten Judischen Heiligthumer (1711)のDer Gotze Moloch mit 7 Raumen oder Capellen.モレク

モレク(Molech、ヘブライ語:??? (mlk))は、古代の中東で崇拝されたの名。カナンの神のヘブライ語名。男性神。モロク(Moloch、[?mo?l?k])ともいう。「涙の国の君主」、「母親の涙と子供達の血に塗れた魔王」とも呼ばれており、人身供犠が行われたことで知られる。ラビ・ユダヤ教の伝統では、Molochは生贄が投げ入れられる火で熱されたブロンズ像とされる。また、ギリシャ、ローマの作家によってカルタゴバアル・ハモンにおける子供の人身御供とされた[1]

セム語派で王を意味するマリク(Malik、mlk)に基づく第二神殿時代の偽悪語法的発音である。ジェイムズ王訳聖書では、アモン人の神やフェニキアティルス市守護神 Melqart を言及するものとして Milcom( ???????? Malkam、「偉大な王」)という表現もある。

フェニキア語では???、マソラ本文では ??????、ラテン語では m?lek、ギリシア語七十人訳聖書ではΜολ?χ。
古代イスラエル

パレスチナにもモレクの祭儀は伝わった。古代イスラエルでは、ヘブライ語で恥を意味するボシェト(bosheth) と同じ母音をあて、モレクと呼ぶのが一般的であった。『レビ記』では石打ちの対象となる大罪のうちに、「モレクに子供を捧げること」が挙げられている[2]。しかしソロモン王は、モレクの崇拝を行ったことが『列王記』に述べられている[3]。ここではモレクは、アンモン人の神であるアンモンの子らと同義に置かれる。

レビ記』18:21に「子どもをモレクにささげてはならない」、『レビ記』20:2-5に「イスラエルの人々のうち、またイスラエルのうちに寄留する他国人のうち、だれでもその子供をモレクにささげる者は、必ず殺されなければならない。すなわち、国の民は彼を石で撃たなければならない。わたしは顔をその人に向け、彼を民のうちから断つであろう。彼がその子供をモレクにささげてわたしの聖所を汚し、またわたしの聖なる名を汚したからである。その人が子供をモレクにささげるとき、国の民がもしことさらに、この事に目をおおい、これを殺さないならば、わたし自身、顔をその人とその家族とに向け、彼および彼に見ならってモレクを慕い、これと姦淫する者を、すべて民のうちから断つであろう。」とある。

また、『列王記』上第11章では、パロの娘、モアブ、アンモン、エドム、シドン、ヘテなどの外国の女を愛したソロモン王が妻たちによって他の神々を崇拝したとある。「ソロモンがシドンびとの女神アシタロテに従い、アンモンびとの神である憎むべき者ミルコムに従った」「ソロモンはモアブの神である憎むべき者ケモシのために、またアンモンの人々の神である憎むべき者モレクのためにエルサレムの東の山に高き所を築いた。」

列王記下16:3では、アハズ王が「イスラエルの王たちの道に歩み、また主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の憎むべきおこないにしたがって、自分の子を火に焼いてささげ物とした」とある。

歴代誌下28:2-4では、「イスラエルの王たちの道に歩み、またもろもろのバアルのために鋳た像を造り、ベンヒンノムの谷で香をたき、その子らを火に焼いて供え物とするなど、主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の憎むべき行いにならい、また高き所の上、丘の上、すべての青木の下で犠牲をささげ、香をたいた。」とある。[4]
古代アモン人

古代のヨルダン東部に住んでいたアモン人達からは、豊作や利益を守る神として崇拝されており、彼らはブロンズで「玉座に座ったモレクの像」を造り出し、それを生贄の祭壇として使っており、像の内部には7つの生贄を入れる為の棚も設けられていた。そしてその棚には、供物として捧げられる小麦粉、雉鳩、牝羊牝山羊子牛、牡牛、そして人間の新生児が入れられ、生きたままの状態で焼き殺した。新生児はいずれも王権を継ぐ者の第一子であったとされる。また、生贄の儀式にはシンバルトランペット太鼓による凄まじい音が鳴り響き、これは子供の泣き声をかき消す為のものとされている。
新約聖書

モレクへの言及は新約聖書にも見られ、ユダヤ人にとって避けるべき異教の神とみなされていたことがわかる。
バアル・ハモン

中世以降、注釈者たちはモレクをフェニキアの主神であるバアル・ハモンと同一視するようになった。これには古典古代の作家たちが伝えるバアル・ハモンの崇拝が人身供犠を特徴としていたことが大きい。プルタルコスらは、カルタゴではバアル・ハモンのために人が焼きつくす捧げ物として犠牲にされたことを伝え、この神をクロノスあるいはサートゥルヌスと同一視した。

1921年オットー・アイスフェルトは、モレクについての新説を発表した。これはカルタゴの発掘調査に基づいており、mlk が「王」の意味でも神の名でもないとする。アイスフェルトの説によれば、この単語は少なくとも幾つかの場合には人身供犠を含む、ある特定の犠牲の形式を指す語であった。子供をつかんでいる祭司を描いたレリーフが発見された。また祭儀場らしい場所からは、子供の骨が大量に発見された。子供には新生児も含まれていたが、より年齢が上のものもあり、ほぼ6歳を上限とするものであった。アイスフェルトは、旧約聖書の中で語義が不明であった「トフェト(tophet)」がこの祭儀場を指す語であったと唱えた。同じような場所は、フェニキア人の植民地があったサルディニアマルタシチリアでも発見された。

アイスフェルトの説は、発表されて以来、幾人かの疑念を除けばほぼ支持されてきた。しかし1970年にカルタゴの人身供犠についての見解を修正する説をサバティーノ・モスカティが唱えた。モスカティはカルタゴでの人身供犠が日常的なものではなく、極めて困難なときに限り捧げられたと考えた。この点についての論争は現在のところ決着を見ておらず、さらなる考古学的証拠の発見が待たれている。


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