モルドバの言語・民族性問題
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本稿では、モルドバ共和国の主要民族の民族性と母語について述べる。

モルドバ共和国の民族性については、モルドバ人ルーマニア人のなかの一グループなのか、ルーマニア人とは異なる民族なのかということが問題としてあがっている。また、ルーマニアとモルドバ共和国の言語の共通性については広く認識されているものの、特定の政治的背景に基づき「モルドバ語」という用語を使用することに関しては論争がある。これが母語に関する問題である。
経緯

1991年にモルドバ共和国が独立を宣言した際、その公用語は「ルーマニア語」とされ[1]、その国歌はルーマニアの国歌と同じ「目覚めよ、ルーマニア人!」と定められた。しかし、その後の政治的議論を反映し、1994年の憲法では同国の公用語を「モルドバ語」とし[2]、新たに「我らが言葉」が国歌と定められた。更に、2003年の「民族性に関する法」では[3]、ルーマニア人をモルドバにおける少数民族として位置づけた。法律によって公的にルーマニア人とモルドバ人を別のものと定めたことについては、モルドバ共和国の学術関係者からも強い非難があがり[4][5][6][7][8]、市民、とくに知識層や学生による抗議運動が起こり、政界にも影響が及んだ[9][10][11]。更に、モルドバ共和国とルーマニアとの外交問題にまで発展した。

2013年、モルドバの憲法裁判所(英語版)は1991年の独立宣言に基づいて、モルドバ共和国の公用語を「ルーマニア語」と規定した[12]
モルダヴィア公国(1359年 - 1812年)
中世の歴史書にみられるモルダヴィアの民族性

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}中世のモルダヴィアの歴史書[要出典]では、モルダヴィアの人々は自身をモルドヴェニ(Moldoveni、現在のモルドヴァ人と同じ)と呼んでおり、モルダヴィア人、ワラキア人、トランシルヴァニア人は同一の起源を持ち、同一の言語を話すと記している。モルダヴィア公シュテファン3世(1457年 - 1504年)は、1457年から1499年までを対象とした歴史書の編纂を命じたが、書名は「Dy Cronycke Des Stephen Woywoda auss Wallachey(ワラキア公シュテファンの歴史書)」と付けられた[13]。モルダヴィアの重要な年代史家であるグリゴレ・ウレケ(Grigore Ureche、1590年 - 1647年)は、ハンガリー王国領内のルーマニア人とモルダヴィア人はともに「ローマの民」であり、同一の起源を持つとしている[14]。また、ミロン・コスティン(Miron Costin、1633年 - 1691年)は、自身が執筆した歴史書の中で、モルダヴィア人の「最も真正で確かな」呼称は、ローマ帝国に由来する名である「Ruman」であり、その呼称は民族の歴史の中でずっと保たれてきたとしている。更に、モルダヴィア人は「あなたはモルダヴィア語を話すか?」とは言わず、「あなたはルーマニア語を話すか?」と尋ねると述べている[15]。ミロン・コスティンの息子、ニコラエ・コスティン(Nicolae Costin、1660年 - 1712年)もまた、著書の中で父と同様の見解を述べている[16]。ワラキアの年代史家コンスタンティン・カンタクジノ(Constantin Cantacuzino、1655年 - 1716年)は、自身の述べるところのルーマニア人とは、ワラキアに住むルーマニア人、トランシルヴァニアに住むもの、モルダヴィア人であり、これらはいずれも同じ言語を話し、同一の起源を持つとしている[17]。年代史家でモルダヴィア公、プロイセン科学アカデミの会員であるディミトリエ・カンテミール(1673年 - 1723年)は複数の歴史に関する本を著している。そのうちひとつは「Hronicul vechimei a Romano-Moldo-Vlahilor(ルーマニア・モルドバ・ワラキアの永続性の記録)と題され、プロイセン科学アカデミーの求めに応じてペテルスブルクにて執筆された。はじめはラテン語で書かれ、後にカンテミールによってルーマニア語に翻訳された。導入部にてカンテミールは、これは全てのルーマニア人の地に関する歴史書である(Hronicon a toat? ?ara Romaneasc?)とし、これが後にモルダヴィア、ワラキア、トランシルヴァニアに別れた(care apoi s-au imp?r?it in Moldova, Munteneasc? ?i Ardealul)ものだと述べ、同書がはじめはラテン語で(pre limba latineasc?)書かれ、後にルーマニア語に(pre limba romaneasc?)翻訳されたものだとしている。この中でトランシルヴァニア人、モルダヴィア人、ワラキア人はともにルーマニア人と呼ばれる(carii cu to?ii cu un nume de ob?te romani s? chiam?)と書いている。
外国人の旅行記の記述

複数の外国人の旅行家がモルダヴィアを訪れており、16世紀以降の記録によると地元の住民は自身の言語を「ルーマニア語」と呼んでおり[18][19]、モルダヴィアやワラキア、トランシルヴァニアの人々は、その起源がローマ帝国にあることを知っていることに言及している[20]

トランシルヴァニア・ザクセン人のゲオルク・ライヒャーシュトルファー(Georg Reicherstorffer、1495年 - 1554年)は、ワラキアおよびモルダヴィアにおけるフェルディナント1世の使者であり、1527年と1535年にモルダヴィア公国を訪れ、2つの旅行記「Moldaviae quae olim Daciae pars, Chorographia」(1541年)および「Chorographia Transylvaniae」(1550年)を記している。この中で、モルダヴィアの地理に関して、(モルダヴィアは)その名前の他に、ワラキアと呼ばれることもあるとし、モルダヴィアの住民の言語については「ローマ語(イタリア語)が今も使われており…、(モルダヴィアの)ワラキア人はイタリア系の民族であり、彼らの主張する通り、古代ローマの民の末裔である」としている[21]ヴェローナ出身の年代史家で軍人のアレッサンドロ・グアニーニ(Alessandro Guagnini、1538年 - 1614年)はモルダヴィアを2度訪れ、ヨアン・ヤコブ・ヘラクリド(Ioan Iacob Heraclid、デスポト・ヴォダ)の公位獲得の手助けをしている。グアニーニはその後「Vita despothi Principis Moldaviae」を執筆した。これは、ヨアン・ヤコブ・ヘラクリドについての伝記であり、この中でモルダヴィアの人々について次のように述べている。「ワラキア人は自身を『ローマ人』と呼び、イタリアのローマをその起源だとしている。彼らの言語はラテン語とイタリア語の混ざったようなものであり、イタリア人ならばワラキア人と意思疎通を図るのはたやすいことである[22]」。イエズス会のイタリア人とみられる人物による1587年の旅行記では、モルダヴィア人について「これらの人々はギリシャ正教に属し、古代ローマに関する事物を好み、おそらくこれは、彼らの言語が俗ラテン語であることや、彼らの自身がローマ人の子孫であるとの考え、自身をローマ人と称することによるものと考えられる[23]

また、これらの記録によると、周辺に住むスラヴ人たちは、モルダヴィアの人々をヴラフ、ヴォロフ等の呼称で呼んでおり、ワラキアやトランシルヴァニア、バルカン半島一円に住むロマンス諸語話者と同じ名で呼ばれていた[24]。人文学者のニコラエ・オラフス(1493年 - 1568年)は著書「Hungaria et Attila」の中で、モルダヴィア人がワラキア人と同じ言語、習慣、信仰を持ち、衣装のみが異なっているとしている。更に、モルダヴィアやその他のヴラフたちの言語はかつてはローマの言語(ラテン語)であり、彼らはローマ帝国の入植者の子孫であるとしている[25]

トーマス・トーントン (商人)(Thomas Thornton、1762年 - 1814年)が、オスマン帝国領内での旅行について述べた1807年の著書では、ワラキアやモルダヴィアの農民たちは、貴族(ボイエール、boyars)と区別して自分たちをルムンあるいはロマンと呼んでおり、彼らの言語は俗ラテン語であるとしている[26]


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