モリタ宮田工業
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モリタ宮田工業株式会社
MORITA MIYATA CORPORATION



モリタ宮田工業 茅ヶ崎工場
種類株式会社
市場情報非上場(以下は過去のデータ)東証2部 7301
2009年7月28日上場廃止
本社所在地 日本
135-0063
東京都江東区有明三丁目5番7号
TOC有明ウエストタワー19階
本店所在地253-8588
神奈川県茅ヶ崎市下町屋一丁目1番1号
設立1934年1月16日(創業は1890年4月1日
業種輸送用機器
法人番号1021001007460
事業内容消火器・消火設備の製造販売
代表者代表取締役会長 中川龍太郎
資本金1億円
売上高単独126億57百万円
(2014年3月期)
純利益16億4300万円
(2023年3月期)[1]
総資産215億0900万円
(2023年3月期)[1]
決算期3月31日
主要株主株式会社モリタホールディングス
外部リンクhttps://www.moritamiyata.com/
特記事項:モリタ防災テック合併前の数値
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1952年型アサヒ・ゴールデンビームFA

モリタ宮田工業株式会社(モリタみやたこうぎょう、MORITA MIYATA CORPORATION )は東京都江東区に本社を置く消火器消火設備製造する企業である。2014年に宮田工業がモリタ防災テックを合併するとともに商号変更した。
概要

ライフル等の製銃で祖を成し、自転車に続きオートバイ国産化で一流メーカーの仲間入りを果たした。大田区蒲田本社工場以外にも松本市(長野県)、大多喜町(千葉県)に工場を持っていた。軍需の仕事が無くなった終戦後、新興オートバイメーカーの乱立により新製品開発の為に開発費が増大、新興メーカーが海外レース等で実績をあげ有名になると更に収益が悪化、オートバイ事業から撤退する。

経営再建にあたっては日本興業銀行が当社株式を松下電器産業(現:パナソニック ホールディングス)に売却、同社傘下となる(同社創業者の松下幸之助が自転車店に丁稚奉公していたことから宮田には思い入れがあり、その暖簾を消してはならぬと株を引き受けたという)、大田区蒲田にあった広大な工場を松下に売却(現在の東京都立六郷工科高等学校のある付近、一部パナソニックの社宅としても残っている模様)、神奈川県茅ヶ崎市に新工場を建設し移転。その売却差額で負債を返済し、再建への道筋を付けた。また米国へ自転車を輸出する際、偶然見つけたアンスル消火器を日本に持ち帰り粉末消火器の国産化に成功し、防災事業を核として再興。一時は無借金経営の上場会社として有名だった。現在は消防車のトップメーカーのモリタグループになり上場廃止。2010年には自転車部門を株式会社ミヤタサイクルとして分社化し、2012年に自転車製造を全面移管した。
沿革

1871年 - 初代宮田栄助(1840?1900)は、農家の出身だが親類筋にあたる水戸藩の鉄砲指南役をつとめる国友家に師事して製銃技術を身につけ、常陸国笠間藩のお抱えとして苗字帯刀を得た鉄砲師であった。明治維新の廃藩置県(明治4年)により雇用を解かれ、その後 人力車などを作っていた。(1台18円で売った記録が残っている)

1876年 - 次男宮田政治郎(1865?1931、後の二代目宮田栄助)を、明治9年から5年間、もと徳川家お抱えの鉄砲師、国友信之門下へ入門させる(銀座にあった)。

初代宮田栄助は東京・小石川にあった陸軍砲兵工廠に勤務(日給1円の高給取り)。


1881年 - 初代宮田栄助が東京京橋区木挽町(現在の銀座)に宮田製銃所を創設。

1887年 - 宮田政治郎は陸軍の銃工として大阪砲兵工廠へ入廠し軍用の潜水ポンプから羅針盤までの製作を経験し技術を取得後、兄 宮田菊太郎を入廠させ、自身は東芝の前身である 田中久重 工場に入所。「小タガネの名人」と称された。田中門下生には後の沖電気創業者・沖牙太郎池貝創業者・池貝庄太郎もいた。

十二番宮田銃(猟銃)を開発 専売特許権を獲得


1889年 - 東京築地鉄砲洲(現在の明石町)にあった外国人居留地に住む異人が、宮田製銃所に当時最新の安全型自転車を一台持参し修理を依頼した。(自転車との係わりの始まり)

1890年

4月、東京本所区菊川町に工場を新築移転(現在の菊川3丁目 出羽松山藩下屋敷跡地)。明治政府の富国強兵、殖産興業政策を受け、最新の輸入工作機械を購入、約月産500挺)

この頃の本所界隈は1891年、本所小泉町に石鹸マッチ取次の小林富次郎商店(現:ライオン)開業、1893年本所柳島町に服部金太郎が時計製造の精工舎(現:セイコー)を設立。


1893年 - 国産第一号自転車の試作車を完成、販売開始。

1894年 - 日清戦争勃発(約月産400挺)

9月17日、東京日々新聞に広告。ギヤMでなく「井桁に宮」マークを用い、社名も宮田製銃所ではなく「各種自転車及猟銃製造所、宮田榮助」

9月2日、毎日新聞 大倉組銃砲店の広告内で 英国製(125円-200円)と並び宮田式自転車の空気入タイヤ付安全型自転車(95円)と紹介される


1894年

3月11日、東京朝日新聞 宮田の広告

7月24日、東京日々新聞 宮田、自転車製造起業一周年祝の広告

8月2日、東京朝日新聞 自転車製造起業一周年祝の広告


1895年 - 第4回内国勧業博覧会・京都自転車出品

1901年 - 狩猟法改正により猟銃の売上げが激減する。

1902年 - 自転車の将来性に着目、従来の製銃を廃し商号を宮田製作所と改称。

アメリカ製クリープランド号をモデルにして「アサヒ号」を発売する。自転車製造に専念。

輪友 第6号 "宮田工場主宮田栄助氏の談話"の記事 掲載


1903年 - 大阪天王寺公園で開催された第5回内国勧業博覧会に旭号を出品し、自転車3等賞牌を授与

(この博覧会で横浜の商社が米国製 自動車8台を展示・デモストレーション走行を行う)


1906年 - 安価なアメリカ製自転車の国内流入に対抗してパーソン号を発売(当時新聞広告は宮田自転車製作所)

1906年 - ギヤMマークを登録商標

1908年 - に輸出開始

1906年 - 東京勧業博覧会が開催され、アサヒスペシャル号と米式旭号パーソン号を出品し、1等賞金牌を受ける

1909年 - 四輪自動車旭号乗用車(試作車)を完成。(空冷ヘンロイド式水平2気筒エンジン1年2か月をかけて欧州製自動車を研究)

国産一号自動車の山羽式乗合自動車(蒸気式)(製作技師は山羽虎夫、出資者は岡山の資産家楠健太郎、森房造、萩原、伊達、1904年完成)

タクリー号(ガソリン式)(製作は吉田真太郎、三浦共同経営のオートモビル商会、技師は内山駒之助、発注者は有栖川宮威仁親王、1907年完成)

国末2号(国末1号は動かなかった)(製作は山田米太郎、国末良吉経営の自働車製作所、技師林茂木(エクセン創業者)、1910年完成)

アロー号(製作技師は矢野倖一(矢野特殊自動車創業者、出資・協力者は村上義太郎、1916年完成)


1910年 - 国産オートバイの試作を開始

(同社杉山鐘次郎が製作主任、名古屋の山田栄一から寄贈されたトライアンフをモデルに研究)

(名古屋鶴舞公園で開催された第10回関西府県連合共進会に宮田製作所 国産「旭号」小型乗用車を出品 一等の金牌を受賞)


1913年 - トライアンフ型オートバイ「旭号」の国産試作第二号車を完成。

(国産オートバイ試作第一号車は島津モーター研究所のNS号1909年完成)

水冷直列型の二気筒四人乗り国産乗用車「旭号」を試作

逓信局(大阪)外国車に換え宮田製パーソン号を初めて納入


1914年 - オートバイ旭号の市販第一号車を480円で警視庁に納入(黒バイと呼ばれていた)。上野公園国産奨励会で金賞を受賞。

東京大正博覧会で宮田製作所の旭号乗用車銀賞受賞(快進社(日産の前身)のダット号は銅牌受賞)

自転車年間生産25,000台となる

国内初 盗難保険付自転車を発売、オランダ大博覧会出品。


1916年 - 純日本製を表す国華号自転車発売。オートバイ旭号の生産を中止。

1926年 - 個人経営組織を合資会社宮田製作所に改組。

1927年 - ギヤエム号自転車の発売

1930年 - 東京市蒲田区東六郷に本社・工場共に新築移転。

1932年 - 逓信省に全国の局用車を納入、『宮田栄助追悼録』発行


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