モリスコ
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ザンブラ(スペイン語版)を奏でるモリスコ
フラメンコの原型と言われている

モリスコ(スペイン語: morisco、ポルトガル語: mourisco)は、イベリア半島レコンキスタが行われていた時代に、カトリック改宗したイスラム教徒を指す名称。用語はさらに転換され、秘密裏にイスラム教を信仰した疑いをかけられた人々に適用される軽蔑語となった。秘密裏にユダヤ教を信仰する改宗ユダヤ人コンベルソ)はマラーノと呼ばれた[1]
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出典検索?: "モリスコ" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2021年4月)

レコンキスタ後の1500年代初頭に、ムデハル(スペイン語版)(イベリア半島出身者のイスラム教徒)はカトリックを受け入れるかスペインを離れるかを強制された。改宗を拒んだイスラム教徒は、イスラム教に固執したために死刑、追放、監禁などの懲罰に直面した。改宗したイスラム教徒はモリスコとして知られるようになった。しかし、多くのモリスコは隠れイスラム教徒として信仰し続けた。イスラム教支持者[誰?]らは、モリスコの間の文化と信仰の再生を経験して[何の?]いた。この活動[何の?]を不安に感じたスペイン王家が、新しく再征服されたスペイン領からイスラム教徒とユダヤ教徒どちらも追放しようと努めたのである。1610年、スペイン王家はついに残っていたイスラム教徒住民を追放した。難民のほとんどが、オスマン帝国支配下の土地か北アフリカへと逃れていった。

ムデハルの厳密な地位は、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}多様な地域および後の勅令のカピチュレーションに依存[要出典]していた。1492年グラナダが陥落すると、イスラム住民はグラナダ条約によって信仰の自由を授けられた。しかし、その約束は短期間だけだった。グラナダ初代大司教エルナンド・デ・タラベラ側の平和な改宗努力がなされ、シスネロスはより強力な手段をつくった:強制改宗、イスラム教文書焼却と一部のグラナダ・イスラム教徒迫害である。これらの措置とその他の条約違反に反発して、グラナダのイスラム教徒(モリスコ)は1499年に反乱を起こした。反乱は1501年初頭まで続き、スペイン当局は降伏条約[何の?]において残りの約定[何の?]を無効にした。

1501年、スペイン当局はグラナダのイスラム教徒に、改宗か追放を選べという最後通牒をした。彼らの多くは改宗したが、それは通常表面だけの改宗だった。彼らは以前からそうしたように、イスラム教徒の服を着てイスラム教徒の言葉を話し続け、秘密裡にイスラム教を信仰し続けた。彼らの多くは、カスティーリャ語またはアラゴン語を書く場合でも、アラビア文字を用いアラビア語に由来する表現を多用したアルハミヤーと呼ばれる独自の筆記法を使用した。1502年、当局はカスティーリャ王国のムデハルに適用された最後通告の延長[何の?]をした。1508年、当局はイスラム教徒の伝統的な服を禁止した。ナバーラのムデハルは1515年に改宗か亡命を迫られ、1525年には同様のことがアラゴンのムデハルの身に起きた。16世紀のアルハミヤー文学の文書

[2]

より制限の加えられた[何の?]法律が、カルロス1世時代の1526年と1527年に導入された。

モリスコは40年に渡り法律上の権利停止の罰を受けていた。1567年、フェリペ2世は、モリスコに対し彼らのイスラム名と伝統的なイスラムの服、そしてアラビア語の禁止を要求する命令を出して、彼らに圧力を加えた。モリスコには、モリスコの子供たちがカトリック聖職者によって教育されると説明された。これが、1568年から1571年までアルプハラスで起きた反乱(英語版)(スペイン語:Rebelion de las Alpujarras)の引き金となった。反乱征圧後、政府はグラナダのモリスコをグラナダの外へ強制移住させた。多くはバレンシア王国へ送られた。王家の手先と共謀したほんの一握りのモリスコは、都市[どこ?]やグラナダの領域での滞在を許可された。強制移住は、グラナダのモリスコだけでなく、当時全くキリスト教徒と同化されていたカスティーリャのモリスコにも影響を与えた。

キリスト教化されたモリスコは、その信仰がしばしば疑わしいとみなされた。彼らは、スペインに対して陰謀を企てるオスマン帝国やバルバリア海賊と接触している疑いがあった。スパイ[誰?]は、オスマン帝国スルタンセリム2世マルタを攻撃し、征服後にスペインへ移る計画であると[いつ?]報告してきた(既に1565年、マルタはトルコ軍の猛攻をしのいでいる)。その構想では、スペインのイスラム教徒とモリスコの間で反乱を起こすことになっていた。脅威を確信し、フェリペ2世はモリスコに対して制限的な処置[何の?]を法律化した。しかし、富裕で傑出した地位に上がっていた多くのモリスコは、当局の影響力に対抗する力を相当に行使した。カトリック王は、モリスコと取引するという決意を強めた。アラゴンとバレンシアの貴族は特にモリスコの労働力を必要とし、一連の忍耐と宗教的命令を主唱する追放から、モリスコを守ろうとした。イスラム教徒の事業家と労働者は、バレンシアとムルシアの農業で特に欠かせない存在だったのである。

16世紀終盤へ向かい、モリスコの作家たちはスペインとは異質であるとして、自らの文化の認識に疑問を呈しようとした。彼らの文芸作品は、アラビア語を話すスペイン人が肯定的な役割を演じた初期スペイン史の話を公開した。主な作品として ⇒ミゲル・デ・ルナのVerdadera historia del rey don Rodrigo(ドン・ロドリゴ王の真実の歴史 1545年-1615年頃)がある。
追放詳細は「モリスコ追放」を参照モリスコ追放、ビセンテ・カルドゥチョ画、プラド美術館

モリスコは、結局1609年(バレンシアにおけるモリスコ追放)から1614年(カスティーリャにおけるモリスコ追放)にかけて、レルマ公フランシスコ・ゴメス・デ・サンドバル・イ・ロハス、バレンシア副王フアン・デ・リベラに教唆されたフェリペ3世により、スペインから強制的に追放された。現在[いつ?]の計算では30万人前後(当時のスペイン人口の約4%)とされた[誰によって?]が、この第二の追放の波で放出された人数の概算は異なった[何の?]。大多数がアラゴン王国(現在のアラゴン州カタルーニャ州バレンシア州)から追放された。対照的に、追放の最初の一波は、1492年のグラナダ陥落のすぐ後にアンダルシアから追放されたものである[3][4]。こうして追放されたモリスコの穴を、キリスト教徒の新規入植によって埋め合わせようという試みはうまく行かず、このことがスペイン・地中海地方のその後の経済崩壊の原因になったという指摘[誰の?]もある。そもそも入植者の数が少なく、その上その地域の農業技術に習熟していなかったのである。

成人のモリスコは、しばしば隠れイスラム教徒(en:Crypto-Muslims)だとされた。しかしモリスコの子供たちの追放準備は、カトリック教国スペインにジレンマを提示した。子供たちは全員がカトリックの洗礼を受けており、したがって、政府は彼らを法的にも道義的にもイスラム教徒の国へ輸送することはできなかった。


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