モリエール
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ヨーロッパの国際列車については「モリエール (列車)」を、東京都新宿区にある日本の劇場については「新宿シアターモリエール」をご覧ください。

モリエール
ニコラ・ミニャールによるモリエールの肖像画
ペンネームモリエール
誕生ジャン=バティスト・ポクラン
1622年1月15日
フランス王国, パリ
死没 (1673-02-17) 1673年2月17日(51歳没)
フランス王国, パリ
職業俳優劇作家
言語フランス語
国籍 フランス王国
活動期間1643年-1673年
ジャンル喜劇
文学活動古典主義
代表作『人間嫌い
女房学校
タルチュフ
守銭奴
病は気から
ドン・ジュアン
署名
ウィキポータル 文学
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モリエール(フランス語: Moliere)として知られる、ジャン=バティスト・ポクラン(フランス語: Jean-Baptiste Poquelin、1622年1月15日 - 1673年2月17日)は、フランス王国ブルボン朝時代の俳優劇作家ピエール・コルネイユジャン・ラシーヌとともに古典主義の3大作家の1人。悲劇には多くを残さなかったが、鋭い風刺を効かせた数多くの優れた喜劇を制作し、フランス古典喜劇を完成させた。

自筆原稿や手紙は見つかっていない。また、南仏修業時代のモリエールの署名とされるものには同じ筆跡が一つとして無いなど、その生涯、特に青年期に関しては不明な点が多い。極めて裕福な家庭に生まれ育ち、青年期に演劇を志して劇団を結成するも運営に失敗、パリから逃げ出すように13年間の南フランス演劇修業の旅に出た。その甲斐あってパリ帰還後に大成功を収め、自身が率いる劇団はフランス国王の寵愛を獲得するまでに至った。彼が率いていた劇団がコメディ・フランセーズの前身であることから、同劇団は「モリエールの家(La maison de Moliere)」という別名を持つ。
生涯
青年期1、モリエールの生家
2、ミシェル・マズュエル(父方の祖父)の家
3、ルイ・クラッセ(母方の祖父)の家
4、1633年に父親が購入した新居

1622年1月15日に現在のパリサントノーレ通りに面した家で、富裕な商人であるジャン・ポクラン(Jean Poquelin、父27歳)とマリー・クラッセ(Marie Cresse、母20歳)の間に長男として生まれる。ポクラン家は先祖代々商業を営んでおり、モリエールの祖父の代からは室内装飾業者を営んでいた。母マリー・クラッセもパリの裕福な商家の出身で、一通りの読み書きの心得もあったので、無学文盲の多い当時の庶民階級の女性としては、かなり高度な教養を身につけていた[1][2]

モリエールがどのような教育を受けたのかは、同時代人による証言がいくつかあるものの、それらが食い違っているため、本当のところはよくわかっていない。以下の教育に関する記述もあくまで一説である[3]

1631年ころ、ジェズイット派の運営するコレージュ・ド・クレルモンへ入学。同年、父親ジャン・ポクランが「王室付き室内装飾業者」という肩書を買い取った。1632年、母マリー・クラッセが死去。マリーの財産目録によれば、モリエールが生まれてから10年で一家の財産が3倍に膨れ上がっている。翌年父親がカトリーヌ・フルーレットと再婚し、継母となるが、1636年に死去している[2]薬を売る大道芸人(オルヴィエタン)

1633年9月、父親が家を購入し、転居。この家は当時の商業の中心地であった中央市場や、様々な芸人が集まっていたポン・ヌフ、フランス国内で最初に有名になったサロン、ランブイエ邸の近くであった。また母方の祖父ルイ・クラッセが芝居好きで、当時一流の劇場であったブルゴーニュ劇場(Hotel de Bourgogne)に桟敷を持っていたので、度々祖父に連れられて出かけたりしていた。このような環境で育ったことが劇作家としての基盤となった[4][5][6]

1640年ころ、コレージュ・ド・クレルモンを卒業。その後、オルレアンの大学に進学し、法律を学んだ。この頃、女優であり、彼にとっては初めての恋人であるマドレーヌ・ベジャールに出会ったようである。シラノ・ド・ベルジュラックらとともに、ピエール・ガッサンディに哲学を学んだとされるが、定かではない。1643年、大学を卒業。弁護士として活動する資格を得る[7][8]

この翌年、父親の代理として国王ルイ13世に随行しナルボンヌへ出向くなど、父親の跡を継ぐつもりであったようだが、次第に心変わりし家業を継ぐことを断念して、「王室付き室内装飾業者」世襲の権利は弟へ譲り、演劇の世界で生きていく決意を固めた。マドレーヌ・ベジャールに出会い、恋に落ちたために、この決意を固めたとする説や、相思相愛の仲であるマドレーヌに会うために、気の進まぬ役を引き受けてナルボンヌへの旅に出たとする説がある[9][8]
盛名座結成

1643年1月3日、モリエールは書面で父親に世襲権を抛棄する旨を宣言し、その権利を弟の一人に譲渡したいと申し出た。そして母親の遺産の一部(630リーヴル)を劇団結成の費用に充てるために至急支払ってくれるよう要求した。商人として社会的地位を一歩一歩高めてきた父親は驚き、親戚共々翻意を迫ったが、モリエールの決意を翻す迄には至らなかった。同年6月30日、マドレーヌ・ベジャールの母親マリー=エルベの家にて、劇団結成の契約書に署名が為された。マドレーヌが座長格、モリエールが副座長格に就任した。しかし、座員はベジャール三兄妹のジョセフ、マドレーヌ、ジュヌヴィエーヴ、そしてモリエールの他数名、しかも俳優としての実績があるのはマドレーヌだけという有様で、残りの者はモリエールを含め全員演劇は素人であった。そのためかマドレーヌだけは好きな役を勝手に選ぶ権利が保証されていた。また、その契約書には、座員が脱退する場合には「初舞台以前なら3000リーヴルの罰金、以後なら4か月以前に届け出を必要とする。なお違反した場合には全財産没収」とあるなど、熱意だけは素晴らしかった[10]ジュ・ド・ポーム

かくして劇団は結成されたが、活動拠点とする劇場を探す必要があった。結成されたばかりで資金的余裕などなく、あちこち探し回った結果、1643年9月にセーヌ川左岸のサン=ジェルマン街に古ぼけたジュ・ド・ポーム球戯場に借り受けることとなったが、三年契約で1900リーヴルも必要であった為に、母親の遺産の中から手切れ金同然に貰い受けた分では当然足りず、結局父親に借金を申し込む羽目に陥った[11][12]

当時のパリにおいて常設劇場として使えるのはブルゴーニュ劇場とマレー劇場の2つしかなかったため、常設劇場を持つ資金力のない劇団は球戯場を借りて劇場として改装し、そこで興行を行うのがふつうであった。盛名座の借りた球戯場もその例外でなく、改装しなければならなかったため、演劇への熱意を抑えられない一同は早速活動を始めるためにルーアンへ赴き、10月から1か月の間興行を行った。ルーアンはコルネイユが居住していた町で、後々のモリエール劇団のレパートリーに彼の作品が多くみられることを考えると、コルネイユを意識していたのかもしれない[11][12]

ブルゴーニュ劇場とマレー劇場の2つのみが当時のパリにおける常設劇場であったことは先述したが、マレー劇場を使用していた劇団(マレー座)は新興勢力として、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで成長しており、ブルゴーニュ座を脅かす存在となっていた。その勢いを削ぐためにブルゴーニュ座の座長は、マレー座の団員を大量に引き抜く策略に出て、それを見事に成功させたのだった。


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