モリエール劇団(仏: Troupe de Moliere )は、17世紀フランスに存在した劇団。国立劇場コメディ・フランセーズの前身のひとつ。同劇場が「モリエールの家」と呼ばれる所以は、この劇団のメンバーを中心として創設されたことにある。
歴史詳細は「モリエール#生涯」を参照
デュフレーヌ劇団(1645?1658年)デュフレーヌ劇団の南フランス巡業の軌跡
演劇を志した若きジャン=バティスト・ポクラン、後のモリエールは、マドレーヌ・ベジャールらと1643年にパリで盛名座を旗揚げしたが、敢え無く失敗し、借金のために投獄までされるという憂き目に遭った。こうした事情からパリにいられなくなったモリエールは1645年、盛名座の数人の仲間たちとともにボルドーへ赴き、同地でギュイエンヌ総督エペルノン公爵の庇護を受けることに成功し、盛名座は公爵が所有していたデュフレーヌ劇団と合併した。1645年の年末、もしくは46年の年頭のことである。デュフレーヌとは座長を務めていた俳優の名前である[1][2][3][4]。
1650年頃、カトリーヌ・ド・ブリーならびにアルマンド・ベジャールが劇団に加入した。アルマンドは子役としての入団であったが、後にモリエールの妻となった。1653年にはマルキーズ・デュ・パルクが劇団に加入し、こうして後のモリエール劇団の看板女優が全員揃った[5][2][6]。
1653年、コンティ公の庇護を獲得した。1656年11月、劇団を長い間支援してくれていたオービジュー伯爵が亡くなった。それから間もなくのこと、1657年に同じく庇護者の1人であったコンティ公が突如カトリックへ改宗し、敬虔な信者となった。これによって劇団は庇護を失ったばかりか、「罪深い娯楽」として激しい弾圧の対象となった[7][8][9]。このように相次いで庇護を失ったことは、当然劇団に影響を与えた。安定した収入を見込んでいたのに、その当てが消え失せたことで財政的な危機に直面してしまった。この財政危機がきっかけとなって、劇団はパリへの進出を決意したのだった[10]。
1658年、劇団はパリ進出をもくろみ、その下準備を始めていた。パリの目と鼻の先の位置にあるルーアンで行った興行は大成功を収め、より一層の自信をつけた[8]。すでに劇壇の中心的存在となっていたモリエールはルーアンに滞在中、パリでの庇護者を探す目的で、数回パリへ赴いている[8]。13年にも及ぶ南フランスでの修業時代に、有力者の庇護を受けたり失ったりを繰り返していたモリエールは、演劇の腕を磨いただけではなく、有力者との交渉人としても腕が立つようになっていたのである[11]。
ところがモリエールの恋人、マドレーヌ・ベジャールも自身で劇団のパリ進出のために行動を起こしていた。彼女は1658年7月、マレー座の劇場を9月から借り受ける契約を締結している。この頃のマレー座は団員の引き抜きなどに遭って、1年以上劇場の閉鎖を余儀なくされていたので、デュフレーヌ劇団と合併できれば再び活動を再開できるのであった。パリでの拠点がほしいデュフレーヌ劇団と、団員の足りないマレー座と、利害が一致したわけだが、モリエールと仲間たちは自分たちの劇団が吸収されることを望まなかった。劇団がルイ14世の弟であるフィリップ1世の庇護を受けることに成功し、王弟殿下専属劇団(Troupe de Monsieur)との肩書を獲得したことで、この話は立ち消えとなったようである[12]。
こうして王弟殿下の庇護を獲得したデュフレーヌ劇団は、1658年10月24日にルイ14世の御前で演劇を行った。劇団はこの御前公演において、まず初めにコルネイユの悲劇『ニコメード』を上演した。この公演には、数々のコルネイユ悲劇を上演し、パリで大成功を収めていたブルゴーニュ座の役者たちも臨席していた。彼らの得意演目を、その眼前で上演にかけるという大胆な行為に出たのである。『ニコメード』の上演を終えると、モリエールは国王陛下の御前に進み出て、『恋する医者』の上演を願い出た。幸いなことに『恋する医者』は国王陛下のお気に入るところとなり、こうして大成功のうちに御前公演を終えた。劇団は国王やその延臣たちに気に入られ、プチ・ブルボン劇場を使用する許可を獲得した。1658年11月には、パリの観客の前にデビューしている。