この項目では、現代の地名について説明しています。その他の用法については「モラヴィア (曖昧さ回避)」をご覧ください。
EUにおけるモラヴィア州の位置モラヴィアの紋章モラヴィア王国の紋章20世紀末のチェコの国土に重ね合わせたモラヴィアの位置(緑) 西のボヘミア、北東のシレジアと接するチェコの土地と現在の行政区域モラヴィア王国の旗
モラヴィア(英語: Moravia)は、チェコ共和国東部の地方。チェコ語ではモラヴァ(チェコ語: Morava)、ドイツ語ではメーレン(ドイツ語: Mahren)と呼ばれる。面積は約26,000km2[1]。
地理がボヘミアとの、南東の小カルパティア山脈
モラヴィア南部からスロバキアにかけての平地にはステップ=ヒース群落が広がっていたが、人間の開発によって様相は大きく変化している[3]。降水量の少ない低地にはチェルノーゼムが分布する[3]。
モラヴィアにはボヘミアのプラハのような中心都市は現れなかったが、チェコ共和国ではブルノがプラハに次ぐ第二の都市として発展している[4]。 チェコの住民と地方は文化(主な特徴は言語、民俗衣装など)によって幾つかに区分され、モラヴィアの中にもラキア
地域区分ブルノの街並みオロモウツの聖三位一体柱
地方
行政区分
南モラヴィア州
ズリーン州
モラヴィア・スレスコ州
オロモウツ州
パルドゥビツェ州
ヴィソチナ州
南ボヘミア州
主な都市
イフラヴァ(イグラウ)
ヴァルチツェ
オロモウツ(オルミュッツ)
ズノイモ(ツナイム)
スラフコフ・ウ・ブルナ(アウステルリッツ)
ズリーン
ブジェツラフ
ミクロフ(ニコルスブルク)
ブルノ(ブリュン)
プロスチェヨフ(プロスニッツ)
レドニツェ(チェコ語版、英語版)
テルチ
クロムニェジーシュ(チェコ語版、英語版)(クレムジール)
歴史大モラヴィア王国の支配領域1928年までのチェコスロバキア共和国の地域区分
紀元前14世紀から紀元前13世紀にかけて東ヨーロッパに広がっていた、農耕・牧畜文化のラウジッツ文化圏には、モラヴィアも含まれていた[5]。紀元前5世紀ごろにラウジッツ文化は消滅するが、その原因として遊牧民族のスキタイ人の侵入が挙げられており、モラヴィアでも破壊されたラウジッツ文化の要塞の跡とスキタイ人の墓が発見されている[6]。紀元前1世紀半ばのモラヴィアにはケルト人が居住していた[1]。やがてケルト人を圧迫したゲルマン人が定住し、6世紀にはスラヴ系民族が入植した[1]。考古学的資料からは、5世紀にすでにスラヴ人がモラヴィアに居住していたと推定されている[7]。
7世紀前半、アヴァール人に服従していたモラヴィアのスラヴ人はボヘミアのスラヴ人、パンノニアのスロベニア人とともにフランク人商人のサモ(英語版)の反乱に参加し、王国を建てる[8]。サモの王国は領土をラウジッツ地方に拡大するが、658年にサモが没した後、アヴァール人によって滅ぼされた。
アヴァール人の国家が崩壊した後、9世紀にモラヴァ川流域に拠点を置く豪族のモイミールと彼の一族に率いられた「モラヴィア人」は勢力を拡大し、国家としての形式を備えるようになっていた[9]。チェコ、スロバキアを中心とするモラヴィア王国の最大版図はポーランド、ハンガリー、オーストリアの一部を含み、モラヴィア地方と区別するために「大モラヴィア王国」の名前で呼ばれることもある[10]。東フランク王国やイタリアのキリスト教聖職者がモラヴィアで布教活動を行っていたがそれぞれの教える内容が異なり、混乱を収めるためにモラヴィア公ラスチスラフはビザンツ帝国(東ローマ帝国)に宣教師の派遣を要請した[11]。要請に応じてテッサロニキの修道士キュリロスとメトディオスの兄弟が派遣され、グラゴール文字を用いた布教、聖職者の育成が行われた[11]。885年にメトディオスが没した後、彼が育てた弟子は追放され、教会組織も崩壊する[11]。9世紀後半、東方に居住していた遊牧民族マジャール人がブルガリアの攻撃を受けてパンノニア盆地に移り、901年にモラヴィア王国は東フランク王国と反マジャールの同盟を締結する[12]。902年から906年頃にかけて行われたマジャール人の攻撃はモラヴィア王国に大打撃を与え、王国は崩壊した[12]。20世紀前半までモラヴィア王国の存在は文書史料でしか確認できなかったが、第二次世界大戦後に実施された発掘調査によってモラヴァ川沿いの遺跡が多く発見され、有力な国家の実在が立証された[13]。