モフセン・マフマルバフ
Mohsen Makhmalbaf
2015年
本名???? ???????
生年月日 (1957-05-29) 1957年5月29日(66歳)
出生地 イラン テヘラン
国籍 イラン
職業映画監督、脚本家、映画プロデューサー
ジャンル映画
活動期間1981年 -
配偶者ファテメ・メシュキニ(1978年 - 1982年、死別)
マルズィエ・メシュキニ
受賞
カンヌ国際映画祭
エキュメニカル審査員賞
2001年『カンダハール』
ヴェネツィア国際映画祭
上院議会金メダル
1998年『サイレンス』
ユネスコ連盟賞
2000年『キシュ島の物語』
ロベール・ブレッソン賞
2015年
東京国際映画祭
芸術貢献賞
1996年『愛を織る娘ギャベ(英語版)』
その他の賞
カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭
審査員特別賞
1992年『ワンス・アポン・ア・タイム、シネマ』シッチェス・カタロニア国際映画祭
最優秀監督賞
1996年『愛を織る娘ギャべ』東京フィルメックス
観客賞
2015年『独裁者と小さな孫』
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モフセン・マフマルバフ(???? ???????, ラテン文字転写:Mohsen Makhmalbaf, 1957年5月29日 - )は、イラン・テヘラン出身の映画監督・脚本家・映画プロデューサー。イランでも最も人気のある監督の1人。20本以上の長編映画を製作し、『カンダハール』は『タイム』誌が選ぶ「ベスト映画100本」に選ばれている[1]。
人物幼少時代イラン革命初期のマフマルバフ。最初の妻であるファテメ・メシュキニ(マルズィエの妹)と、2人の子どもたちであるサミラ・メイサムとともに
1957年にテヘランで出生。10代半ばでイスラム主義に傾倒し、15歳でパフラヴィー朝を倒すための地下活動に参加、17歳の時に警察官を刺傷して逮捕され、死刑判決を受けた。4年半に渡る獄中生活ののち、1979年のイラン革命の際に釈放された[2][3]。釈放後は政治から遠ざかり、作家となり1981年にマルチェス・ハハニパラストの『Towjeeh』の脚本を担当し、1983年に『Tawba Nasuh』で監督デビュー。1996年、映画に携わる人材を育成するため、マフマルバフ・フィルム・ハウスを設立した。
2001年には彼のスピーチやレポートを集めた『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』が日本でも出版された。また、アフガニスタン難民キャンプに住む子どもたちの識字・衛生教育やアフガニスタン国内の学校建設などを熱心に支援している。
イラン政府による検閲に抗議し、2005年イラン大統領選挙後にイランを離れ、2009年イラン大統領選挙以降はパリに居住している[4]。マフマルバフによると、イラン出国以降の10年間で4回、イラン政府から暗殺されそうになった[5]。
個人と社会的・政治的環境との関係に主眼を置いた作品が多く、自身の政治活動を参考にした作品も見られる[6]。また、1991年の『Time of Love』以降はロマン主義的な作品も製作するようになった[7]。
家族全員が映画に関わる仕事をしており、長女サミラ、次女ハナはいずれも映画監督となった。妻マルズィエ・メシュキニ(英語版)もモフセンの作品で助監督を務めるかたわら、自らの監督作品も撮っている。長男のメイサムもプロデューサーなどで活動している。マフマルバフが映画を製作する際は家族全員が製作に参加するが、家族が製作する映画にはマフマルバフは一切参加させてもらえない[8]。