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インドネシアの政治家モハマッド・ハッタMohammad Hatta
生年月日1902年8月12日
出生地
オランダ領東インド西スマトラ・フォート・デ・コック
没年月日 (1980-03-14) 1980年3月14日(77歳没)
死没地 インドネシア ジャカルタ
所属政党インドネシア国民党
称号インドネシア国家英雄
配偶者Rahmi Rachim
サイン
初代 インドネシア共和国副大統領
在任期間1945年8月18日 - 1956年12月1日
大統領スカルノ
第3代 インドネシア共和国首相
在任期間1948年1月29日 - 1949年9月5日
大統領スカルノ
第4代 国防相
モハマッド・ハッタ(Mohammad Hatta、1902年8月12日 - 1980年3月14日)は、インドネシア共和国の初代副大統領(1945年-1956年)である。初代大統領となったスカルノとともに、インドネシアの民族主義運動、独立運動において主導的役割を果たした。その一方でスカルノとは出自、性格、信条においてきわめて対照的であり、スカルノの鋭い批判者でもあった。 オランダ領東インド(現在のインドネシア)時代の西スマトラ、ブキティンギ生まれ。「商才に長ける」と評されるミナンカバウ族の出身であり、生家は郵便輸送などを植民地政府から請け負う商家であった。 幼時よりイスラーム塾でクルアーンの暗誦を学ぶとともに現地のオランダ人子弟のための初等学校にも通い、オランダ語での教育を受けた。その後、西スマトラの中心都市パダンの普通中学校へ進み、さらに首都バタヴィア(現在のジャカルタ)で中等商業学校へと進んだ。そして1921年、オランダに渡り、ロッテルダム商科大学に留学した。 オランダ滞在中に、先住民留学生による学生団体(「インドネシア協会」。名称はオランダ語表記のIndische Vereniging から 1925年にはインドネシア語表記の Perhimpunan Indonesia に改称された)に加わり、政治運動に傾倒した。それとともにヨーロッパの労働運動や協同組合運動などについても見聞を深め、またヨーロッパの左派知識人や活動家らと交流した。1927年にはオランダ本国政府に逮捕されたが法廷闘争を通じて無罪を勝ち取っている。 1932年に経済学修士号を授与される。その後、東インドに帰国するとすぐにインドネシア国民教育協会(Pendidikan Nasional Indonesia)に参加し、活発な評論活動や啓発活動などに励んだ。この時期、民族主義運動の手法、独立国家構想などの点で、インドネシア国民党を率いるスカルノと活発な論争をおこなった。なお1933年には日本を訪れている。 しかし植民地政府が民族主義運動に対する態度を硬化させると、1934年にハッタも植民地政府に逮捕され、西イリアンのボーフェン・ディグール(現タナ・メラ、パプア州)、続いてマルク諸島のバンダに流刑にされ、シャフリルとともに長い投獄生活、流刑地での生活をつづけることになった。 1942年に太平洋戦争下で日本軍がオランダ領東インドに侵攻しオランダ軍を放逐し、占領地全域で日本軍による軍政がはじまると、流刑先にあったハッタも政界に復帰した。日本軍政当局のねらいは、現地の民衆の協力を獲得するために高名な民族主義者であるスカルノやハッタの力を利用することであったが、民族主義者側のねらいは、ここであたえられた立場を利用して発言し、民衆の民族意識を高めることであった。ハッタもまたスカルノとともにその民衆運動の第一線に立った。また終戦間際には日本政府も独立に向けての協力を行うようになった。
経歴
生い立ち
政治運動
民族主義運動
独立戦争独立宣言を読み上げるスカルノ。
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