モノモタパ王国(Monomotapa)もしくはムタパ王国(Mutapa)は、かつてアフリカ大陸の南東部に存在していた国家。南部アフリカのザンベジ川とリンポポ川の間に広がり、支配領域にはジンバブエ共和国とモザンビーク共和国の領土にあたる地域が含まれている。最盛期の16世紀半ばには北はザンベジ川、南はサビ川、西はジンバブエ高原北西部のマニャメ川、東はインド洋に影響力を行使していたが、一部のポルトガル語文献にはアンゴラから喜望峰までを支配する大国として誇張して記されている[1]。
モノモタパ、ムタパのほか、ムニュムタパ、ムウェネムタパ、ベノモタパなどの呼称も用いられる。ポルトガル語に由来する「モノモタパ(Monomotapa)」は「征服した土地の王子」を意味する「Mwenemutapa」という称号の音訳であり、ムウェネ(Mwene)は「王子」、ムタパ(Mutapa)は領土を意味する言葉である[2]。モノモタパという称号が王国自体を指す言葉として使われるようになり、ある時期には「モノモタパ」の語が王国の支配領域と共に地図上に併記されていた[3]。
ルヤ川の源流付近に存在するツォンゴンベ(ゾンゴンベ)遺跡は、最初期のモノモタパ王国の首都に推定されている[4]。16世紀のモノモタパ王国の首都はカミ川の近辺に存在していたと考えられているが、正確な位置は判明していない[5]。 モノモタパ王国の始まりは15世紀前半にさかのぼる[6] 。ジンバブエ王国
歴史
王朝の起源
ポルトガル人によって採取されたムトタとマトペによるモノモタパ王国の創始を述べた口承の正確性は疑問視されている[8]。しかし、王朝の創始者がアフリカ大陸の南から北に勢力を拡大する伝説は、出土品の分布といった考古学的史料とも矛盾せず、先に存在したジンバブエ王国の「石の家」建築文化も南から北に拡大したことが指摘されている[9]。
ポルトガル人がモザンビークの沿岸部に到達したときには、モノモタパ王国は南アフリカにおける最大のショナ人の国家に成長していた[7]。1506年にポルトガル人書記ディオゴ・デ・アルカソヴァが作成した報告書には、モノモタパ王国の宮廷で起きた権力闘争のためにソファラへの金の流通が停滞していることが記されている[10]。
ポルトガルとの接触16世紀のポルトガルで作成された、アフリカ南部にモノモタパ王国の領土が描かれた地図
1515年にポルトガル人はキルワ島とソファラを破壊し、アフリカ南東部の沿岸地帯の大部分を支配下に置いた[11]。彼らの主な目的はインド交易の支配権を握ることにあったが、ポルトガル人は無意識のうちにモノモタパの従属国とインドの間で高級品を運ぶ役割を持つようになっていた。南東アフリカ探検の草分けであるアントニオ・フェルナンデスは1514年から2度内陸部の探検を行い、この時にモノモタパ王国の領土を訪れたと考えられている[12]。
ポルトガル人が南東アフリカの沿岸部に到達した後、モノモタパ王国は使者を派遣して友好の意思を示し、1540年までにモノモタパ王国とポルトガル人の間に通商関係が成立する[13]。モノモタパの国王はポルトガル人に領内での商業活動を認める一方、彼らの活動を監視して徴税を担う「諸門のキャピタン」を任命した。1525年にモノモタパ王国はソファラを占領し、モザンビーク島に集落を建設する[5]。