モナ・リザ
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「モナ・リザ」のその他の用法については「モナ・リザ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

『モナ・リザ』イタリア語: La Gioconda
フランス語: La Joconde

作者レオナルド・ダ・ヴィンチ
製作年1503年 - 1519年
種類ポプラ板に油彩
寸法77 cm × 53 cm (30 in × 21 in)
所蔵ルーヴル美術館パリ フランス

『モナ・リザ』(: La Gioconda、: La Joconde)は、イタリア美術家レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた油彩画。上半身のみが描かれた女性の肖像画で、「世界でもっとも知られた、もっとも見られた、もっとも書かれた、もっとも歌われた、もっともパロディ作品が作られた美術作品」といわれている[1]

ポプラ板油彩で描かれた板絵で、1503年から1506年に制作されたと考えられている[2]。もともとはフランス王フランソワ1世が購入した作品だが、現在はフランスの国有財産であり、パリルーヴル美術館が常設展示をしている[2]。しばしば「謎」と表現される画題の不確かさ[3]、スケールの大きな画面構成、立体描写の繊細さ、だまし絵めいた雰囲気など、さまざまな点において斬新であったこの作品は、現在に至るまで人々を魅了し続け、研究の対象となってきた[2]
モデルと作品名詳細は「リザ・デル・ジョコンド」を参照

この作品が『モナ・リザ』と呼ばれているのは、16世紀のイタリア人芸術家、伝記作家ジョルジョ・ヴァザーリの著書『画家・彫刻家・建築家列伝』の「レオナルドは、フランチェスコ・デル・ジョコンドから妻モナ・リザの肖像画制作の依頼を受けた」という記述が元となっている[注釈 1][4]。イタリア語の「ma donna」は「私の貴婦人」を意味し、短縮形で「mona」と綴られる。ヴァザーリが著作に書いているように「mona」が伝統的な綴りではあるが[注釈 1]、現代イタリア語では「madonna」の短縮形は「monna」となることが多い。したがって「モナ・リザ」を現代イタリア語で綴ると「Monna Lisa」となるが、世界の多くの言語では一般的に「Mona Lisa」(または「Mona Liza」)と綴られている。ハイデルベルク大学で発見された、フィレンツェの役人だったアゴスティーノ・ヴェスプッチが1503年に記した書き込み。レオナルドがリザ・デル・ジョコンドの肖像画を制作しているという内容が書かれている

レオナルドの伝記が書かれたヴァザーリの著書『画家・彫刻家・建築家列伝』は、レオナルドが死去した31年後の1550年に出版されたものである。そして現在にいたるまで、『モナ・リザ』の来歴やモデルの特定などの情報源としては、この『画家・彫刻家・建築家列伝』がもっともよく知られた文献資料となっている。2005年にドイツのハイデルベルク大学図書館の研究者が、大学の蔵書である1477年に出版されたキケロ全集の余白部分にラテン語の書込みを発見した。この書き込みは、レオナルドの同時代人でフィレンツェの役人だったアゴスティーノ・ヴェスプッチ (en:Agostino Vespucci) が1503年に記したもので、ヴェスプッチはレオナルドを著名な古代ギリシアの画家アペレスに例える文章を書いた人物だった。ヴェスプッチの書き込みには、レオナルドがリザ・デル・ジョコンドの肖像画を制作している最中であることが、1503年10月という日付とともに記されていた[5][6]。2004年に実施された赤外線分析の結果からも、『モナ・リザ』の制作開始年が、ジョコンドが次男を出産した1503年ごろだといわれている[7][8]

レオナルドが1525年に死去する際に、弟子のサライに「ラ・ジョコンダ (la Gioconda)」という題名の肖像画を遺贈したことが、サライの個人的覚書に記されている。イタリア語の「giocondo」は「幸福な」や「陽気な」を意味する。「La Gioconda」はモデルの姓であると同時に、「幸せな人」を意味する「La gioconda」の語呂あわせにもなっている[9][10]

『モナ・リザ』のモデルであるリザ・デル・ジョコンドは[11][12]フィレンツェトスカーナに起源を持つゲラルディーニ家の出身で、フィレンツェの裕福な絹商人フランチェスコ・デル・ジョコンドと結婚した[9]。フランチェスコが『モナ・リザ』の制作をレオナルドに依頼したのは、デル・ジョコンド一家の新居引越しと次男アドレアの出産祝いだったと考えられている[13]
来歴詳細は「レオナルド・ダ・ヴィンチ」を参照レオナルド・ダ・ヴィンチの自画像。赤パステルで1512年から1515年ごろに描かれた。

レオナルド・ダ・ヴィンチがフィレンツェで『モナ・リザ』の制作を開始したのは1503年か1504年である[14]。レオナルドと同時代人のジョルジョ・ヴァザーリは「制作に4年を費やしたが、結局未完に終わった」と記している[4]。晩年のレオナルドは「ただの1作も完成させることができなかった」ともいわれている[15]

1516年に、レオナルドはフランス王フランソワ1世の招きに応じてフランスを訪れ、フランソワ1世の居城アンボワーズ城近くのクルーの館に移り住んだ。このときにレオナルドは『モナ・リザ』もフランスへ持参し、フランスでも『モナ・リザ』に加筆し続けたと考えられている[16]。レオナルドは1519年に死去し、『モナ・リザ』は他の作品とともに弟子のサライが相続した[9]。その後フランソワ1世が『モナ・リザ』を4,000エキュで買い上げ、ルイ14世に寄贈されるまで、100年以上フォンテーヌブロー宮殿に所蔵されていた。ルイ14世は『モナ・リザ』を自身が新たに王宮に定めたヴェルサイユ宮殿へと移した。フランス革命後、『モナ・リザ』はルーヴル美術館の所蔵となったが、ナポレオン1世がフランス皇帝だったときには、テュイルリー宮殿のナポレオン1世の寝室に飾られていたこともあった。1870年から1871年に起こった普仏戦争時にはルーヴル美術館からブレスト・アーセナル (en:Brest Arsenal) に移されている[17]。また、第二次世界大戦時には戦禍を避けて、アンボワーズ城、ロク・デュ修道院 (en:Loc-Dieu Abbey)、シャンボール城を転々とし、最終的にモントーバンアングル美術館に収められている。
盗難と破損『モナ・リザ』が盗まれたルーヴル美術館サロン・カレの展示場所。

『モナ・リザ』の名声は、1911年8月21日にルーヴル美術館から盗まれたときにさらに上がった[18]。盗難に遭ったのが発覚したのは翌日の8月22日で、フランス人画家ルイ・ベロー (en:Louis Beroud) が、『モナ・リザ』をスケッチするために、『モナ・リザ』が公開されているサロン・カレを訪れた。しかしながら、『モナ・リザ』が展示されているはずの場所には、額縁を固定する釘が残されているだけだった。ベローは警備責任者に連絡したが、この警備責任者は『モナ・リザ』は宣伝に使用する写真撮影のために移動させられているだけだと思い込んでしまった。数時間後、ベローが美術館の担当者に再度確認したところ、『モナ・リザ』には写真撮影の予定が入っていないことが分かり、『モナ・リザ』が盗難に遭ったことが発覚したのである。ルーヴル美術館は、捜査に協力するために一週間閉館となった。

ルーヴル美術館など「燃えてしまえ」と言い放ったことがあるフランス人詩人ギヨーム・アポリネールに盗難の容疑がかかり、アポリネールは逮捕、投獄された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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