モナコの歴史
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モナコの歴史(モナコのれきし)では、モナコ公国の歴史について概観する。古代の人々によって初期は避難所、のちに要塞として使われ、現在のモナコ周辺の地理的陸標であった「モナコの岩」に始まる。その岩山は街を保護する観点や、軍事戦略的観点から重要なものであった。モナコはローマ帝国の崩壊後、14世紀から15世紀初期に至りリグーリアの一部として発展し、主に政治的理由からその地域を巡って抗争が繰り広げられた。抗争後はグリマルディ家の支配下に入り、フランスに一時期占領されていたことを除けば、現在までその支配が続いている[1]
初期の歴史とリーグリア現代のLa Roche (岩山)

モナコとしての歴史が始まったモナコの岩は、旧石器時代の終わりにあたる、おおよそ前世紀40万年にはその地域の住民に避難所として使われていたことが、聖ジュディスト庭園内の洞穴での発見物で明らかになった。歴史家シケリアのディオドロスと地理学者ストラボンによれば、モナコに最初に永住したのは、現住地であったイタリア、ジェノバから移住し山に住んでいたリグーリア人であったという。しかしインド・ヨーロッパ語族だと推定される古代リグーリア語は、現代のリグーリアの住民が話すイタリア語の方言や、現代モナコ語との直接的つながりがない。



ギリシア人による植民とヘラクレス神話

マッサリア(現代のマルセイユ)から渡ってきたポカイア人が植民地モノイコスを建設した。[2] 地の名称モノイコスは、スペインからイタリアの範囲を通る古代通路を建設したと言われている、ギリシャローマ神話の神ヘラクレス:ヘルクーレス)への現地の崇拝に由来する。[2]皇帝フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスもヘラクレスがモナコの港と海岸沿いの道を建設したということについて述べている。[3] その道にはヘラクレスの祭壇が点在しており、モナコの岩の上に、彼のための神殿が作られたという。その後、ヘラクレスの港という名前は古代の港のために使われた。「ただひとつのもの」を意味するMonoeciや、「一軒家」を意味するMonoikosがヘラクレスやその神殿、岩の回りの周囲から孤立した共同体を示すのに使われるようになった。[2]シケリアのディオドロスストラボンにより編集された「ヘラクレスの旅行」によると、ギリシア人と現住のリグーリア人はどちらも、ヘラクレスがその地域を通ったのだと主張していた。[2]
ローマの支配

ガリア戦争の後、ユリウス・カエサルがギリシアへの軍事作戦のための休憩地として利用したモネコスは、ローマの支配下となり、アルプスの先にある海岸地域としてガリア・トランサルピナとして管理された。ローマ詩人ウェルギリウスは「城のある海のそばの断崖、モネコス」(アエネーイス、VI.830)に住んでいたこと、もしくはヘラクレス神殿において、他の神々は一切同時に祀られていなかったことによる」(R. Maltby, Lexicon of Ancient Latin Etymologies, Leeds)と述べている。しかし岩の地面や密集した都市が発掘を困難にしているのもあり、ヘラクレス神殿はいまだに見つかっていない (Lucan 1.405)。港に関しては、ローマの軍人ファビウス・ウァレンスが閉じ込められたことについてガイウス・プリニウス・セクンドゥスの『博物誌』やタキトゥスの『歴史』で述べられている。
暗黒時代からジェノバ人までテオドシウス一世死後のローマ帝国の分割状況. .mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  西ローマ帝国   東ローマ帝国(ビザンツ帝国)

モナコは西ローマ帝国が476年に崩壊するまでローマ帝国の支配下に置かれ続けた。その後オドアケルに支配され、それは5世紀後半に彼が東ゴート王国により殺されるまで続いた。モナコは6世紀中頃にユスティニアヌス1世が治めていた東ローマ帝国と東ゴート王国との戦い(ゴート戦争)によって東ゴート王国からローマ帝国に取り戻されたが、7世紀になるとランゴバルド人に支配されるようになった。その後モナコはランゴバルド人とフランク人の支配を交互に受けるようになった。この闘争でモナコの人口はほぼ完全になくなったが、975年、サラセン人が追放され、11世紀までにはモナコは再びリグーリア人の手で植民された。

1191年、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ6世はリグーリア人の原住地であるジェノヴァに、モナコの宗主権を与えた。1215年6月10日、ジェノヴァから派遣された皇帝派(ギベリン)がフルコ・デル・カッセロの主導で岩の頂点に要塞の建設を始めた。この日付はしばしばモナコ近代史の始まりの日とされる。

皇帝派はその要塞を戦略的な軍事用の砦とし、その地域の支配の中心に据えることを意図していた。そのために、モナコの岩の砦の周りに人を移住させて必要な駐屯兵を援助するために、要塞周辺へのジェノヴァなどの周辺都市からの移住者を生み出そうとして、払下げ公有地や免税を移住者に提供した。
グリマルディ家支配モナコ軍の紋章

オットー・カネッラの子孫であり、彼の長男であるグリマルド・カネッラから名前をとったグリマルディ家は教皇派(ゲルフ)ジェノヴァ人の中で古くから優勢であった一家である。


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