モトリー・クルー
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モトリー・クルー
Motley Crue
USA.ミネソタ州公演(2012年8月)
基本情報
出身地 アメリカ合衆国
カリフォルニア州 ロサンゼルス
ジャンルヘヴィメタル
ハードロック
グラムメタル
LAメタル
スタジアムロック
活動期間1981年 - 2015年
2019年 - 現在
レーベルエレクトラ・レコード
Motley Records
Eleven Seven Music
公式サイトmotley.com

メンバーヴィンス・ニールVo
ミック・マーズG
ニッキー・シックスB
トミー・リーDs

旧メンバージョン・コラビ(Vo)
ランディ・カスティロ(Ds)
サマンサ・マロニー(Ds)

モトリー・クルー(Motley Crue)は、アメリカ合衆国ヘヴィメタルバンド

1980年代前半から後半にかけて、北米を中心としたスタジアムロック・ムーブメント(LAメタルも含む)の代表的なグループ。全米だけでアルバム総売り上げ2500万枚以上、全世界で1億枚以上を売り上げている[1]2015年に活動終了を宣言していたが、2019年11月から再開。

ドラッグやアルコール依存によるトラブル、事件事故、ゴシップに取りざたされることも非常に多い。
略歴
デビュー?全盛期(1981年 - 1991年)

1981年、ロサンゼルスのクラブシーンで活動していたバンドLondonから脱退したベーシストニッキー・シックスは、自らのバンドを結成するべくSuite19のドラマートミー・リーを誘い、さらに雑誌広告を見てWhite HorseやVendettaなどの多くのローカルバンドでプレイしていたギタリストミック・マーズと連絡を取る。ヴォーカリストにはRockandiのヴィンス・ニール(トミーの高校時代の友人でもあった)をマーズが気に入り、1度目のオーディションはすっぽかされたが2度目のオーディションを経て加入した。

バンド名はマーズのアイデアMottley Cruをニッキーが少し変えてMotley Crue(同じ発音のmotley crewには「寄せ集めメンバー」の意味がある)と決定。なお、oとuの上のウムラウト記号(¨)はドイツビールのレーベンブロイ(Lowenbrau)に影響された[2]

4月には自主制作シングル 'Stick Your Guns / Toast Of The Town' をリリース。12月に同じく自主制作による1stアルバム "Too Fast For Love" を発表。この頃からドラッグ、アルコール漬けの日々を送っており、ヴァン・ヘイレンデイヴィッド・リー・ロスラットスティーヴン・パーシーロビン・クロスビーらと共に自堕落なパーティを繰り広げていた。

1982年、メジャーレーベルのエレクトラと契約、7月に"Too Fast For Love"をリミックスしなおし再リリースした。かつてのグラム・ロックのような派手なメイクにヘアスプレーで膨らませた髪、レザーのステージ衣装、ステージパフォーマンスなど、彼らのスタイルは多くのフォロワーを生み出しLAのサンセット・ストリップを中心として若者たちにファッションや音楽を含めた一大ムーブメントが生まれることとなった。日本ではこれを「LAメタル」と呼んでいる。

1983年3月にキッスのサポートとしてツアーするも、ドラッグ・アルコール癖の酷さを理由にわずか数公演で外される。

同年5月、『USフェスティバル』にヴァン・ヘイレン、オジー・オズボーンスコーピオンズらと共に出演。この頃のステージ衣装は映画『マッドマックス2』や『ニューヨーク1997』からヒントを得たものだった。同年9月、2ndアルバム "Shout At The Devil" を発表。タイトル曲、ペンタグラムの描かれたアルバムジャケットから「彼らは悪魔主義だ」とPMRCから名指しで批判されたが、バンドはこれを否定(ジャケットは後にメンバー4人の写真に変更)。アルバムは全米チャート最高17位を記録、プラチナムを獲得した。

1984年1月からオジー・オズボーンのサポートとして全米ツアー。

4月からはサクソン、ラット、アクセプトなどをサポートにヘッドラインツアー。

この頃ニッキーは友人であるラットのロビン・クロスビーと共同生活を始め、共にドラッグに溺れる生活を送っていた。

8月、イギリスのドニントンで行われた『モンスターズ・オブ・ロック』にオープニング・アクトとして出演。10月、アイアン・メイデンのサポートとしてヨーロッパ・ツアー。

12月8日、ヴィンスが飲酒運転で起こした交通事故によりハノイ・ロックスのドラマーであるラズル (Razzle (musician)) が死亡。ハノイ・ロックス解散の原因となる。

1985年1月、ヴィンスが裁判所の命令でアルコールのリハビリセンターに30日間入所。

6月、3rdアルバム"Theatre Of Pain"発表。このアルバムは全米チャート最高6位を記録しプラチナム獲得。ステージ衣装はスパンコールをちりばめたグラマラスなものになりバンド・ロゴも一変した。(これ以降バンド・ロゴはアルバム発表ごとに変わっていく)

この頃よりデビュー前から手を染めていたメンバーのドラッグ・アルコール問題が深刻になる。特にニッキーのドラッグ中毒は深刻でヘロインコカイン等に金と時間を費やしていた。当時は数グラムのコカインが5000ドルにもなるほど高騰していたという。ロンドンでのライブでは途中で意識を失うこともあった。

また、同ロンドンでドラッグディーラーの家でドラッグを摂取している際に意識を失い、死亡したと思われたためにゴミ箱に捨てられていた、とニッキー本人が語っている映像がある。その頃の状態は後にニッキーが「ヘロイン・ダイアリーズ」として発表する。

7月には初の来日公演。続く全米ツアーではY&Tがサポート。ツアー後半のサポート・アクトは日本のラウドネスが勤めた。

1986年5月、トミーが女優のヘザー・ロックリアと結婚。(1993年に離婚)

6月、ヴィンスが前年起こした事故のため入獄(模範囚として19日後に出所)。

1987年5月、4thアルバム"Girls, Girls, Girls"発表。メイクをやめステージ衣装もレザーを基調にしたワイルドなものになり、このアルバムは全米チャート最高2位を記録。ワールドツアーではバック・コーラスに女性デュオ「ナスティ・ハビッツ」(ドナ・マクダニエル&エミ・キャニオン)を帯同、トミーは360度回転するドラムセットで演奏。「ハイ・エナジー、ロー・IQ」と称されていて、本人も苦笑しつつ認めていた。ツアーのサポートは6月からホワイトスネイク、11月からはガンズ・アンド・ローゼズ

12月に2度目の来日公演。

12月22日、ニッキーがラットのロビン・クロスビー、ガンズ・アンド・ローゼスのスラッシュらとのドラッグ・パーティーの途中、過剰摂取により心臓が一時停止してしまう。

1988年1月、マシュー・ジョン・トリップなる男が「怪我をしたニッキーの代わりにベースを弾いていた、その間の報酬が支払われていない」と発言し、バンドとマネージメントを訴え裁判となるが、バンド側が勝訴(当時、ニッキーが車の運転中に意識を失って事故を起こし、鎖骨を骨折してしまった事故があり、しばらくの間、楽器を演奏することが出来ない時期があったという背景あり)。

1989年8月、ボン・ジョヴィオジー・オズボーンスキッド・ロウスコーピオンズらとともに当時のソビエト連邦首都モスクワで行われた『モスクワ・ミュージック・ピース・フェスティバル』に参加。


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