モダンダンス
[Wikipedia|▼Menu]
1948年のマーサ・グレアム

モダンダンスは、19世紀末から20世紀初頭にかけて主にドイツアメリカで生まれた劇場舞踊(英語版)、タンツテアターのジャンルで、その内容は幅広い。

モダンダンスは、バレエに対する否定または反逆として現れたとされる。背景には社会経済的および文化的要因もある。19世紀末、イザドラ・ダンカンモード・アランロイ・フラーなどの舞踊芸術家によって、美的舞踊あるいは自由舞踊と呼ばれる新たな上演の形式と実践が開拓されていた。これらのダンサーは、バレエの厳密な動きの語彙、バレエに相応しいとされた特定の限られた動きの型を無視し、より自由な動きを求めてコルセットとトウシューズの着用をやめた。

20世紀を通じて、社会政治的な問題、歴史的事件、および他の芸術ジャンルの発展が、アメリカおよびドイツにおけるモダニズムのダンスの持続的な発展を促した。1960年代に入ると、従来のダンスの形式や社会の変化への応答として、ダンスをめぐる新たな考え方が生まれ始める。結果として、ポストモダンダンスのアーティストたちは、モダンダンスの形式主義を否定し、パフォーマンス・アート、コンタクト・インプロヴィゼーション(英語版)、リリース・テクニック、即興などといった要素を含むものになっていった[1]

アメリカのモダンダンスは(大まかに)3つの時代に分けられる。初期(およそ1880年?1923年)では、イザドラ・ダンカン、ロイ・フラー、ルース・セント・デニステッド・ショーン、エレノア・キング(英語版)に代表される。彼らの作品とともに芸術的活動の性質は根本的に変化したが、明確に異質なモダンダンスのテクニックはまだ現れない。中期(およそ1923年?1946年)では、マーサ・グレアムドリス・ハンフリーキャサリン・ダナム、チャールズ・ワイドマン(英語版)、レスター・ホートン(英語版)といった振付家たちが、独自の動きのスタイルや語彙の探究に乗り出し、明確に定義されたダンス・トレーニングのシステムを確立した。後期(およそ1946年?1957年)には、ホセ・リモン、パール・プリマス(英語版)、マース・カニンガム、タリー・ビーティー(英語版)、エリック・ホーキンス(英語版)、アンナ・ソコロウ(英語版)、アンナ・ハルプリン、ポール・テイラー (振付家)(英語版)などが、抽象表現と前衛的な動きを鮮明に示し、ポストモダンダンスへの道を準備することになる。[2]

モダンダンスは、世代ごとに進化してきた。その芸術上の実質は、振付家ごとに異なり、またスタイルやテクニックも同様である。グレアムやホートンなどが中期に生み出したテクニックは今日でも世界中で教えられており、他にも多様なモダンダンスが存続している。
背景

モダンダンスは、バレエへの否定または反逆として現れたとされるが、歴史家は、アメリカとヨーロッパでの社会的・経済的変化がダンスの世界に刺激を与えたと示唆している。アメリカでは、 工業化の進行、(可処分所得と自由時間の多い)中産階級の台頭、ヴィクトリア朝的な社会的圧力(英語版)の低下などにより、健康と体力増進への新たな関心が生まれた。[3] 「こうした状況の中で、バレエへの不満と同時に、社会構造への拒絶からも、“新しいダンス”は生まれてきたのである」。[4] 同じ時期に、「体育を擁護する人々がモダンダンスの出現を助け、またダンスを熱望する若い女性たちの技術的な基盤となったのは体操であった」。[5] 女子大学は1880年代末までに「審美的な舞踊」のコースを提供し始めた。[6] 当時この新興の芸術形式について詳しく書いたエミル・ラスはこう書いている。

「音楽とリズミカルな身体の動きは同時に生まれた、つまり芸術における双子の姉妹である。今日、私たちは,イザドラ・ダンカンやモード・アランたちの芸術作品において、音楽家が作曲において表現するものを作り出すためにダンスが用いられているのを見る。すなわち表現するダンス(interpretative dancing)である」 [7]
自由舞踊(フリーダンス)1903年のイザドラ・ダンカン

1877年: イザドラ・ダンカンはモダンダンスの先駆者であり、体の中心すなわち胴体、裸足、ゆったりとした髪、自由にたゆたうような衣装、ユーモアを含んだ感情表現に力点を置いた。古典ギリシャ芸術、民俗舞踊、社交ダンス、自然、自然の力、そして新しいアメリカ的な運動すなわちスキップ、ランニング、ジャンプ、跳躍、突発的な動作などに触発された。バレエは醜く無意味な体操だとダンカンは考えていた。生涯の折に触れてアメリカに戻ったが、母国ではあまり高い評価を得られず、ヨーロッパに戻り、1927年にニースで亡くなった。

1891年: ロイ・フラーバーレスクのスカート・ダンサー)は、絹の衣装にガス照明がどんな効果を与えるかを実験し始めた。フラーは自然な動きと即興のテクニックを洗練し、革新的な照明機材と半透明の絹の衣装を組み合わせた。着色ジェルと燃焼性化学物質を用いてルミネッセンスを作り出すといった舞台照明の方法や装置に関して、またヴォリュームのある絹の舞台衣装に関して、特許を取得した。

1905:ルース・セント・デニスは女優のサラ・ベルナールと日本人舞踊家の貞奴から影響を受けつつ、インドの文化や神話を独自に翻案した。そのパフォーマンスはすぐに人気を博し、東洋の文化や芸術を研究しつつ広く巡演した。

ヨーロッパにおける初期モダンダンス、表現舞踊ラバン学校のダンサー。1929年、ベルリン

ドイツのマリー・ヴィグマン、フランソワ・デルサルト(英語版)、エミール・ジャック=ダルクローズリトミック)、ルドルフ・フォン・ラバン人間の動きと表現の理論や指導法を掘り下げ、モダンダンスと表現主義ダンス(英語版)の発達を促した。開拓者としてクルト・ヨース(英語版)やハラルト・クロイツベルク(英語版)などがいる。

モダンダンスは表現主義舞踊やノイエ・タンツとも呼ばれた[8]。それは、第一次世界大戦後のドイツにおいて、古典的な形式技法を排して、内面的な表現を重視する動きである[8]。2022年「ドイツにおけるモダンダンスの慣習」はユネスコ無形文化遺産に登録された[9]
ラディカルな展開

大恐慌とヨーロッパでのファシズムの脅威の高まりに対する意識から、ラディカルなダンサーたちは同時代の経済的、社会的、民族的、政治的危機を劇的に表現することにより警鐘を鳴らした。

ハンヤ・ホルム(英語版)はマリー・ヴィグマンの生徒で、ドレスデンのヴィグマン学校の教師。1931年にニューヨーク・ヴィグマン学校を設立し(1936年にハンヤ・ホルム・スタジオとなった)、ヴィグマン・テクニック、ラバンの空間ダイナミクスの理論、そして後には彼女独自のダンス・テクニックをアメリカのモダンダンスに持ち込んだ。熟練した振付家であり、ベニントンでの最初のアメリカン・ダンス・フェスティバル(英語版)(1934年)の創設アーティストだった。ホルムのダンス作品 Metropolitan Daily はNBCで放映された最初のモダンダンス作品であり、『キス・ミー・ケイト』(1948年)のラバノテーション(英語版)・スコアはアメリカで初めて振付著作権が認められた事例である。ホルムは劇場舞踊(英語版)やミュージカルの分野で幅広く振付を行った。[10]

アンナ・ソコロウ(英語版)はマーサ・グレアムとルイス・ホースト(英語版)の生徒であり、1930年頃に自らの舞踊団を設立した。劇的な同時代的イメージを提示するソコロウの作品は概して抽象的で、時間の緊張と疎外、人間の動きに宿る真理を映し出しながら、人間の経験のあらゆる側面を露わにする。

ホセ・リモンはドリス・ハンフリーとチャールズ・ワイドマンに師事した後、1946年に自身の舞踊団を設立し、ハンフリーを芸術監督として迎えた。ハンフリーの指導の下、リモンは代表作 The Moor’s Pavane(1949年)を生み出した。その振付作品とテクニックは、コンテンポラリーダンスに強い影響を及ぼし続けている。[11]

マース・カニンガムはマーサ・グレアムのもとで活動し、バレエを学んだ後、1944年にジョン・ケージとの初めてのソロ公演をニューヨークで行った。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:47 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef