モダニズム建築
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出典検索?: "モダニズム建築" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2013年4月)

モダニズム建築(モダニズムけんちく、: Modern Architecture)または近代建築(きんだいけんちく)は、機能的、合理的な造形理念に基づく建築である。産業革命以降の工業化社会を背景として19世紀末から新しい建築を求めるさまざまな試行錯誤が各国で行われ、1920年代に機能主義、合理主義の建築として成立した。19世紀以前の様式建築(歴史的な意匠)を否定し、工業生産による材料(鉄・コンクリート、ガラス)を用いて、それらの材料に特有の構造、表現をもつ[1]

20世紀の建築と都市計画に影響を与えた建築家は、ル・コルビュジエルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエヴァルター・グロピウスフランク・ロイド・ライトアルヴァ・アアルトなどである。

代表的な作品は、グロピウスバウハウス校舎(1926年)、ミース・ファン・デル・ローエバルセロナ・パビリオン(1929年)、ル・コルビュジエサヴォア邸(1931年)などである。
モダニズム建築ミース・ファン・デル・ローエのバルセロナ・パビリオン(再現。オリジナルは1929年に建てられた)

アーツ・アンド・クラフツに影響を受けたドイツ工作連盟の活動と、芸術学校バウハウスの開設がモダニズム建築の展開のうえで大きな推進力になった。ドイツ工作連盟によって産業と芸術の統一が意図され、ペーター・ベーレンスAEGタービン工場(1910年)が新しい建築のあり方を提示した。ベーレンスの元で学んだヴァルター・グロピウスは、バウハウス(1919年)の教育において建築を中心にした総合芸術を目指した。グロピウスはロシア構成主義やオランダのデ・ステイルの合理主義・機能主義からも影響を受けた。1925年にはバウハウス叢書として『国際建築』(Internationale Architektur)が刊行された。

1927年の国際連盟コンペでは入選9案のうちにル・コルビュジエの計画案を含まれていたが、審査員の中の保守派達(ボザール流の旧式な建築家)はル・コルビュジエ案は規約違反であるとして排斥し、保守派と近代建築運動側の対立が表面化した。これをきっかけに翌年CIAM(Congres International d'Architecture Moderne、シアム、近代建築国際会議)が開催され、グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエル・コルビュジエら24人の建築家が参加した(CIAMは1956年まで各国で開催された)。CIAMを中心にした建築家たちの主張と実践により、新しい建築の理念が確立され、これらの動向は各国に急速に浸透し、機能的・合理的で装飾のない建築が国境を超えていった。

1932年には、ニューヨーク近代美術館(MOMA)でフィリップ・ジョンソンとヘンリー・ヒッチコックの企画によりCIAMの建築家らの作品を紹介した「近代建築展」が開催された。同展の図録『インターナショナル・スタイル』も大きな影響を及ぼし、インターナショナル・スタイル(国際様式)建築という呼び方も一般的になった。

これらの1920年代をピークとする建築運動を近代建築運動(Modern Movements in Architecture)という。近年は機能主義建築、合理主義建築、あるいはインターナショナル・スタイル建築として主張されてきたこれらの動向を総合してモダニズム建築と呼ぶことが多い[2]
特徴

ル・コルビュジエは、「新しい建築の5つの要点(いわゆる近代建築の五原則)」としてピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面を挙げたが、これらは鉄筋コンクリート造鉄骨造という新しい技術によって、石造・煉瓦造が持っていた制約から自由になったことで可能になったものである。モダニズム建築の多くは装飾のない直線的構成を持つ立方体を特徴とし、「豆腐のような」「白い箱」と揶揄される。機能的・合理的で、地域性や民族性を超えた普遍的なデザインとされた。

またモダニズムの建築家は都市改造、社会改革にも深い関心を持ち、ドイツのジードルング(公営集合住宅)建設や、都市問題解決のための提言(例:ル・コルビュジエのパリ改造計画=輝く都市やCIAMのアテネ憲章)などの活動を行った。

しかし20世紀半ばになると、装飾のない建物が一般的になり、近代建築運動は次第に革新性を失っていった。(CIAMの崩壊=1956年が一つの指標になるだろう)

1954年、ジークフリート・ギーディオンが新地方主義の構想を発表した。モダニズム建築がアジア・アフリカ各国にも普及するに従い、風土への適用が課題となったものである。ル・コルビュジエのチャンディーガルも新地方主義の実践の一つといわれる。
成立の背景ウィーンのミヒャエル広場。向かって右の建物がアドルフ・ロースによる通称「ロースハウス」(1910年建設)

近世以降のヨーロッパでは、古代ギリシア・ローマ建築に起源を持ち、ルネサンス建築で復興された建築様式が長く主流とされてきた。建築家は過去の歴史的様式を深く理解し、芸術的な作品を造ることが求められてきた。しかし、コンクリートといった新しい素材が使われるようになり、また社会生活も多様となって建築に対する様々な要求が起こってくると、過去の様式を桎梏として、そこから離脱しようという試みが行われるようになってきた。

建築、工芸におけるモダンデザインの起源は、19世紀イギリスのウィリアム・モリスによるアーツ・アンド・クラフツ運動に置かれることが多い[3]。産業革命の先進国イギリスでは機械による大量生産が進み、安価であるが低俗なデザインの製品があふれていた。モリスはこうした状況を批判し、中世の職人が手仕事で作り出した工芸品に憧れ、生活と芸術の統一を主張した。モリスの邸宅としてフィリップ・ウェッブが設計した「赤い家」(レッド・ハウス、1860年)は煉瓦造で中世風の外観を持つ。一見、過去への回顧的な装いであるが、素材とデザインを統一させた中に美を表現しようとする合理的、革新的な要素を持っていた。モリスが始めたアーツ・アンド・クラフツ運動は各国に大きな影響を与えた。

フランスではアール・ヌーヴォーの建築が過去の装飾を否定し、植物からモチーフを取った曲線的、自由なデザインを用いた。ドイツのユーゲント・シュティール、オーストリアのゼツェッシオン(ウィーン分離派)なども、国や作家の個性により多様ではあるが、歴史主義から離れた自由な装飾を用いている点で同様の傾向を示している。

ウィーン分離派の中心人物オットー・ワーグナーは「芸術はただ必要によってのみ支配される」[4]として、機能性、合理性を重視した近代建築の理念を表現した。


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