モスクワ地下鉄
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1938年開業のマヤコフスカヤ駅
基本情報
ロシア
所在地モスクワモスクワ州
種類地下鉄
開業1935年5月15日
運営者モスクワメトロ公社
公式サイトmosmetro.ru
詳細情報
総延長距離438,6 km (地下鉄)
4.7 km (モスクワモノレール)
54 km (モスクワ中央環状線)
路線数15 (+ モスクワモノレールモスクワ中央環状線)
駅数258 (+ 一時閉鎖中のデロヴォイ・ツェントル駅)
6 (モスクワモノレール)
31 (モスクワ中央環状線)
電化方式825 V 第三軌条方式 (地下鉄)
600 V 第三軌条方式 (モスクワモノレール)
3500 V 架空電車線方式
最高速度80 km/h(地下鉄)
60 km/h (モスクワモノレール)
120km/h (モスクワ中央環状線)
通行方向右側通行
路線図

モスクワ地下鉄の英語版路線図。
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モスクワ地下鉄(モスクワちかてつ、ロシア語: Московское метро)は、正式名称をモスクワ地下鉄公社(ГУП ≪Московский метрополитен≫)と言い、ロシアの首都モスクワ及びモスクワ州を通る地下鉄である。運営はモスクワメトロ公社(総称:モスクワ州統一企業「レーニン記念モスクワレーニン勲章と赤い労働者地下鉄」)によって行われる。1957年から1992年までレーニン記念モスクワ地下鉄(Московский метрополитен имени В. И. Ленина)と称した。ロシア国内で最大の地下鉄である。世界の地下鉄の年間輸送人員においては、世界で5番目に多い東京の地下鉄に続いて利用客の多い地下鉄となっている。最初の路線は、ソコリニキ駅 - パールク・クリトゥールイ駅間にスモレンスカヤ駅への分岐線付きで1935年5月15日に開業された。全15路線(内4路線は後に2路線に統合される予定で2路線は一時的に接続され1路線として扱われている)で、モスクワモノレールモスクワ中央環状線を除いて総延長は397.3 kmある。モスクワ地下鉄には230駅と2つの閉鎖駅(カホーフスカヤ駅とデロヴォイ・ツェントル駅)があり、48駅が文化遺産、また40駅以上がランドマークとされている。モスクワ市の計画によると、2023年までにさらに55駅を建設することになっている。


多くの駅で社会主義リアリズムの様式に沿った豪華な装飾が施されていることでも知られており、他国の地下鉄とは対照的に美術館または宮殿のような雰囲気をもつことから、「地下宮殿」と呼ばれることもある[1]

今までに多くの駅名が変更されており、数回に亘って改名された駅もある。当初は、モスクワ地下鉄自体も、敷設に寄与したラーザリ・カガノーヴィチの名を冠していた。
概要環状線キエフスカヤ駅の様子2012年運用開始の81-760/761

モスクワ地下鉄は、12路線(全ての路線に番号がふられている)、総延長293.1kmで(2008年現在、軽地下鉄を含む)、一日あたりの平均利用者数は800万人程度となっている。5号線の環状線はおよそ20kmの環状路線で、カホーフスカヤ線 11A )とブートフスカヤ線 12 )を除く全ての路線と接続している。

放射線では、モスクワ中心部の駅に向かって運転する際、男声の案内放送が流れ、中心部から遠ざかる運転の際には、女性の声で案内放送が流れる。環状線では、右回りの運転で男声、左回りの運転で女声の案内放送が流れる。

駅の大多数は地下に存在するが、以下に例外を記す。フィリョーフスカヤ線 4 )には、ストゥジェンチェスカヤ駅からクンツェフスカヤ駅までの7駅に亘る長い地上区間がある。軽地下鉄のブートフスカヤ線( 12 )は3分の2が地表を走り、ウーリツァ・スタロカチャロフスカヤ駅が唯一の地下駅である。地上区間があるのは、タガーンスコ=クラスノプレースネンスカヤ線 7 、ヴィヒノ駅が地上駅)、アルバーツコ=ポクローフスカヤ線 3 、イズマイロフスカヤ駅が地上駅)である。

また、モスクワ地下鉄には、地下鉄橋が存在する。ソコーリニチェスカヤ線 1 )のヤウザ川に架かる橋(サコーリニカフ地区)が1つある。モスクワ川には3つの橋が架かっている。具体的には、フィリョーフスカヤ線( 4 、スマリェーンスカヤ?キーエフスカヤ間の1937年に完成した最も古い地下鉄橋)とザモスクヴォレーツカヤ線 2 、アフトザヴォーツカヤ?コロメンスカヤ間)、自動車道の下層部に位置するバラビヨーヴィ=ゴールィ駅の地下鉄橋である(1958年完成。1983年から2002年まで架け替え工事のため閉鎖)。外部と遮断された地下鉄橋も3つあり、列車が橋を渡っていることに乗客が気づくことはない。カルーシュスコ=リーシュスカヤ線 6 )のヤウザ川上、リュビリーンスコ=ドミトロフスカヤ線 10 )のポナマルカ川上などがその種の橋として挙げられる。Серебрянкаのколлектор上を通るアルバーツコ=ポクローフスカヤ線( 3 )の陸橋区間も地下鉄橋に分類されよう。

モスクワ地下鉄の駅名は「-スカヤ」(-ская) で終わるものが多いが、これはロシア語の「駅」を表す単語には、ターミナル駅を表す вокзал(子音で終わる単語のため男性名詞)と通常の駅を表す станция( а または я で終わる単語のため女性名詞)があり、地下鉄駅のような通常規模の駅は станция が使われるため、女性名詞を修飾する形容詞に -ская が付くためである[2]
歴史
未実現の計画技師 A. I. アントーノヴィチ、N. I. ゴリネーヴィチ、N. P. ドミトリーエフ達による1902年のモスクワ都市鉄道計画地下鉄第一路線の建設モスクワ地下鉄70周年記念のロシア小型シート(2005年)

モスクワに地下鉄を建設する最初の計画は1875年に提案された。それはクールスカヤ駅からルビャンスカヤ広場とトルブナヤ広場を経てマリナ・ロシャに至る路線計画であった。しかし、計画は実現されなかった。1902年に技師ピョートル・バリンスキーとエフゲーニー・クノーレはザモスクヴォレーチィ - トヴェルスカヤ間を地下鉄で結ぶ計画を提案した。しかし、市議会は「クノーレとバリンスキーの計画を拒否する・・・」とし、提案を却下した。市議会議員は地下鉄計画の不備を理由としたが、それに加えて当時から存在していたモスクワ市電の団体が計画破棄に影響した(モスクワ市電は当時、市の財政にかなりの収益をもたらしていた)。同年、鉄道技師A. I. アントーノヴィチ、N. I. ゴリネヴィチ、N. P. ドミトリエフによってモスクワ市鉄道計画が立案された。クノーレとバリンスキーの計画とは異なり、この計画では都市中心部を走る地下線と郊外を走る地上線または高架線が提案された。カーメル・コレジュスキー・ヴァル道路に沿った1本の環状線とそれへの乗り換えを可能にする駅の建設が計画された。

1913年、モスクワ市政府は、タガンスク-トヴェリ線(トヴェルスカヤ・ザスタヴァからカリトニコフまで)、アルバーツコ-ミャニツカヤ線(カランチョフスカヤ広場からキエフスキー駅まで)と、ヴィンダフスコ-ザモスクヴォレーツカヤ線(ヴィンダフスキー駅からZILプラットフォームまで)の3つの放射状線地下鉄路線からなる独自の地下鉄建設計画を作成した。1914年-1920年に予定された建設計画は市議会によって承認された。1914年春、カリトニコフで最初の車庫の建設が開始された。用地が確保され建材も運び込まれたが、第一次世界大戦の勃発によって計画は頓挫した。しかし、1923年-1927年にかけて建設が続けられ、カリトニコフの車庫は完成し、第4オクチャーブリスカヤ車庫となった。電気技師M.K.ポリバノフによって1916年に提案された詳細な計画もあった。その計画は3つの放射線状地下鉄のトンネルが主要路線に接続され、その郊外を走る路線は電化されるというものであった。1923年、モスクワ地下鉄建設計画は外国企業であるシーメンスに発注された。80kmのトンネルと86駅の建設を含むシーメンスによる案は1925年に完成した。しかし、資金不足によりこの案は実現には至らなかった。1925年にミャニツキー放射状線の計画が立案されたが、これも同様に実現には至らなかった。
実現された計画
ソ連時代

1931年6月15日、ソビエト連邦共産党中央委員会で、モスクワ市党委員会の第一書記のラーザリ・カガノーヴィチによる報告の後、市内の交通状況を改善し、また、モスクワ市電への乗客の集中を緩和するためにモスクワ地下鉄を建設することが決定された。1931年11月に最初の試験区間の建設がルサコフスカヤ通りで開始された。計画立案中に、将来の地下鉄駅のプラットフォームを島式ホームにするか相対式ホームにするかの議論が起こったが、その結果、島式ホームを備えた3列アーチ式駅とすることが決定された。乗客の地上への移動のためにエスカレーターの設置が提案された。モスクワの技師ヴェニアミン・マコフスキーはモスクワの土壌の複雑な条件下では地下深くにトンネルを敷設する必要があり、またそれは可能であると述べた。1933年に地下鉄第一期工事の計画が認可され、同年メトロストロイ社が主要な工事を開始した。第一期の路線の決定にあたり、まずモスクワ市電の乗客の動きを調べ、最も混雑するルートから建設することにした。ソコリニキ駅 - コムソモーリスカヤ駅間、ビブリオチェーカ・イーミニ・レーニナ駅 - パールク・クリトゥールイ駅間は開盤工法で建設された。また、アレクサンドロフスキー庭園駅 - スモレンスカヤ駅間はトレンチカット工法で建設された。そして、オホートヌイ・リャート駅 - ジェルジンスカヤ広場駅間の地下深い区間ではイギリス式のシールド工法が採用された。建設作業には、欧米の専門の工事者や技師が招かれた。1935年2月15日、初の試験走行が行われた。モスクワ地下鉄は1935年5月15日に開業した。最初の乗客となったのはクラスニープロレタリー工場の労働英雄であるピョートル・ニコラエヴィチ・ラティシエフであった。彼は1935年5月15日に開所したソコリニキ駅の発券所でA-1番の切符を購入した。プスコバヤ線は全長11.2kmで13の駅に12編成が運行された。第一期工事区間はソコリニキ駅 - パールク・クリトゥールイ駅間でスモレンスカヤ駅への支線を伴っていた。後にフィリョーフスカヤ線となったこの支線は、1937年にキエフスカヤ駅まで開通し、途中、モスクワ川を橋で渡った。独ソ戦の開戦までに、さらに2路線が開通した。1938年3月にアルバーツカヤ線がクールスカヤ駅まで延伸された(現在この区間はアルバーツコ=ポクローフスカヤ線に属する)。1938年9月、ゴルコフスコ・ザモスクヴォレーツカヤ線が開通し、ソコル駅からスヴェルドロヴァ広場駅を結んだ。(1990年以降はチェアトラーリナヤ駅に改名。)独ソ戦中には地下鉄は防空壕として使用され、空襲の間に合計217人の子供が地下で生まれた。1941年10月15日、戦略的重要施設として破壊の準備のためモスクワ地下鉄を3時間に渡って閉鎖するという命令がラーザリ・カガノーヴィチによって出された。地下鉄を破壊し、残った車両と装備は撤去することが提案された。1941年10月16日「パニックの日」の朝に地下鉄は閉鎖された。これはモスクワ地下鉄史上唯一の運休であった。しかし夕方には地下鉄破壊命令は撤回された。紙の切符(1940-1941)

モスクワ地下鉄の第三期工事は1940年に開始された。独ソ戦の開戦前のことであった。開戦後の数ヶ月間は建設工事が凍結されたが、モスクワ占領の脅威を脱した1942年5月には既に工事は再開していた。2つの支線が加わった。一つは1943年1月のスヴェルドフォヴァ広場駅 - スターリン工場駅(1956年にアフトザヴォーツカヤ駅に改名)間(モスクワ川を深いトンネルで交差するが、パヴェレツカヤ駅ノヴォクズネツカヤ駅がその後1943年11月に開業)で、もう一つは1944年1月のクールスカヤ駅 - イズマイロフスキー公園駅(2005年にパルチザンスカヤに改名)間であった(4駅)。


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