モシン・ナガンM1891/30
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モシン・ナガンM1891/30モシン・ナガンM1891/30
モシン・ナガンM1891/30
種類軍用小銃
軍用狙撃銃
製造国 ソビエト連邦
設計・製造

設計 セルゲイ・イバノビッチ・モシン
レオン・ナガン
製造 :トゥーラ造兵廠、イジェフスク造兵廠など多数
仕様
口径7.62mm
銃身長730 mm
使用弾薬7.62mm×54R(ラシアン)
7.62mm×53R(フィンランド)
装弾数5発(箱型弾倉・クリップ)
作動方式ボルトアクション方式
全長1,230 mm
重量4 kg
銃口初速ライフル 850 m/秒
歴史 
設計年1930年
製造期間1930年 - 1944年
配備期間1930年 - 1950年代(狙撃銃型は1960年代
配備先ソ連軍
フィンランド国防軍
東側陣営
関連戦争・紛争スペイン内戦
第二次世界大戦
国共内戦
朝鮮戦争
ベトナム戦争
その他多数の内戦・紛争
バリエーションバリエーションを参照
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モシン・ナガンM1891/30(ロシア語:Винтовка образца 1891/30-го года, винтовка Мосина (Vintovka Mosina))はソビエト連邦(以下「ソ連」と表記)で開発されたボルトアクション方式小銃ロシア帝国時代に開発されたモシン・ナガンM1891の改良型である。第二次世界大戦中に、ソ連赤軍の主力小銃として活躍し、狙撃銃としても使用された。

M1891/30から派生した騎兵銃型のM1938と、その改良型であるM1944、その他のバリエーションについても述べる。
開発

1930年代以前までのソ連赤軍の主力小銃は、ロシア帝国時代から製造されていたモシン・ナガンM1891であった。

この小銃は帝政ロシア時代のセルゲイ・モシン大佐とベルギー人のエミール・ナガン、レオン・ナガン兄弟によって開発されたボルトアクションライフルで、1891年に帝政ロシア軍に制式採用された。当時の小銃は単発後装が主だったが、M1891は5連発の弾倉を装備することで火力も格段に上がった。しかし銃の全長が長く、戦場で使うのにはいささか不便であった。

しかし、改良は行われており、1924年には、E.カバコフとI.コマリツキーが、剣留めをスプリング式リングに変更してグラつきを無くした。パンシンは照星覆いを開発し、装弾クリップも単純化し、照尺も頑丈なものに変更された。

だが、タンジェントサイトの距離表尺の標示に帝政ロシア独自の単位であるアルシン[1]を使用していたため、兵士の間では不評であった。赤軍部内でもM1891の陳腐化に伴い、新型小銃の開発が不可欠であると判断された。そこで1920年後半に入ってからM1891の改良型の開発に着手しはじめた。

1930年4月28日、それらの改良を総合したうえで、距離表尺の標示をメートル法にし、コストダウンを施したM1891/30が採用され、生産を開始した[2]
概要

M1891/30はM1891で問題があった点を改良している。機関部の構造や使用弾薬など基本的にはM1891と変わらない。

新規製造されたものと、既存のM1891からM1891/30相当に改修されたものの2種類存在する。

銃身長を10cm程短くし、M1891の騎兵用モデルであったドラグーン・ライフルとほぼ同じ長さになった。

リア・サイト(照門)の、距離表尺の標示を、アルシンからメートル法に変更。更にリア・サイトとフロント・サイトが強化され、フロント・サイトに筒状のカバーが付けられた。

生産簡略化のため、機関部前方にある銃身受部が、六角形から円筒形へ変更。M1891からの改修型は、六角形のままである。

木部については工場や製造時期によって単材製と合板製の2種類がある。

銃剣については、M1891と同じスパイク型を使用。第二次大戦中のソ連軍では、銃剣は着剣状態で携行するため、鞘が付属しておらず、銃剣状態で射撃することが基本とされていた。照準も着剣状態に合わせて調整しているため、銃剣を外して撃つ場合、改めて調整し直さなければならなかった[2]

モシン・ナガンに使用されていたスパイク型銃剣。

擲弾筒と擲弾用照準器を装着したM1891/30小銃。

狙撃銃型

1930年代になるとソ連赤軍は狙撃銃に興味を持つようになり、1937年頃からM1891/30の狙撃銃型を登場させている[2]。名称は小銃型と同じM1891/30である。

狙撃銃型は主力小銃型と比べて、精選された銃身が使用され、装弾するとき直線型ボルトハンドルとスコープが干渉するため、ボルトハンドルが垂れ下がった形状に変更されている。

使用するスコープについては、1930年代にカール・ツァイス の工場設備を購入して、開発に着手している[2]

最初に、銃身へブラケットを付け、倍率4倍のPEスコープを装着した狙撃銃型を登場。PEスコープは、アイ・レリーフ(眼とレンズの間)が10cmで、上下左右の調節機能が内蔵されている。銃とスコープの間は8cm近くあり、そこでメタリックサイトを使用することができた[2]

次に、レールタイプのベースにVPスコープを載せた狙撃銃型が使われ、最終的には既存のスコープより小型である、倍率3.5倍のPUスコープを架装するようになった。PU型スコープは、トカレフM1940半自動小銃にも使用されたスコープだが、PEスコープに取って代わることはできなかった[2]

また、サプレッサーを付けた狙撃銃型も使用されている。サプレッサーは全長232mm、直径32mmの円筒で、直径15mmのゴム2枚で発射ガスを捕捉して減音する仕組みだった。150.5グレインの弾頭を使用したパルチザン実包(減装弾)を使った[2]

PEスコープを装着したM1891/30狙撃銃。

VPスコープを装着したM1891/30狙撃銃。

騎兵銃型

1939年2月26日には、M1891/30の騎兵銃型であるM1938が制定された[2]

M1938は基本構造はM1891/30と変わらないが、全長101.6cm・銃身長50.8cm・重量3,470gと小型化された。しかし、M1891伝統のスパイク型銃剣は装着できなかった。主に騎兵、通信兵、砲兵で使用された。

ソ連赤軍は第二次世界大戦で実戦を経験すると、平原だけでなく、森林や塹壕、市街地などでも戦闘が行われ、障害物を越える戦闘もあったため、全長123cm(着剣状態では166cm)もあるM1891/30では不便であることに気付いた。また、白兵戦を重視する観点から、M1938に折り畳み式の銃剣を備え付けることが検討され、1943年5月に8種類がテストされた。そこで、セミンのシステムが採用された[2]

1944年1月に、M1938に折り畳み銃剣を備えた改良型のM1944が、歩兵・騎兵・補給部隊用として交付され、これをもってM1891/30・M1938の生産は中止された[2]

M1944は、スパイク型銃剣を銃口右側に装着し、普段はこれを側面へ折り畳んで収納する。全長102cm・銃身長51.5cm・重量3,900gで、交戦時に白兵戦への切り替えが容易となり、狭い戦場でも取り回しが便利になった。300 - 400mでの命中率は、M1891/30とそれほど劣らなかったという[2]

M1938騎兵銃。

上から見たM1944の銃剣取り付け基部。

運用

M1891の後継小銃としてようやく登場したM1891/30は、第二次世界大戦を通してソ連赤軍にとって代表的な小銃となった。

主力小銃として開発されたM1891/30であったがソ連の広報、プロパガンダでは狙撃銃型の写真がよく使用された。そのため一般にはM1891/30は狙撃銃として認識されることが多かったようである。

1940年、M1891/30の後継小銃としてトカレフM1940半自動小銃が登場した。だが、不具合が多くてまともに使用できなかったため、置き換えに至らず、M1891/30は現状維持のまま戦線で使用され、1944年まで生産が続行されている。

1944年、M1891/30小銃とM1938騎兵銃を統合したM1944騎兵銃が登場し、戦後も1946年まで生産された。

交戦したドイツ国防軍も多数鹵獲し、それぞれの型に独自の名称を与えた。ドイツ軍は特に狙撃銃型を「7.62mm ZielGew256(r)」の名称で盛んに使用した。M1891/30は「Gew254(r)」の名前で、現地仕様以外にも親独ロシア人部隊やドイツ側保安部隊でも使用され、1944年には国民突撃隊にも交付されている。M1938は「Kar453(r)」として、警備隊や警察部隊が使用していた。M1944も若干数鹵獲していたようで「Kar457(r)」の名称を付けている[2]


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