モオツァルト_(小林秀雄)
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『モオツァルト』は小林秀雄が44歳の時の、作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトについての評論。小林40代の代表的な評論である。モーツァルト理解の最高の書ともいわれる秀逸な評論。
初出・執筆

1946年(昭和21年)12月、創元社の『創元』創刊号に発表された[注釈 1]

構想はその4年前からあったといい[1]大岡昇平によると昭和21年に伊豆、伊東市の古屋旅館で執筆された[2]。原稿の末尾には「昭和21年7月」と書かれている。
内容
 
ゲエテはモオツァルトの音楽を「人間どもをからかう為に、悪魔が発明した音楽」と評した。

 ト短調シンフォニイの第4楽章について。何という沢山な悩みが、何という単純極まる形式を発見しているか。

 「構想は奔流の様に心のなかに姿を現します。」という「モオツァルトの手紙」を引用。何もかもその通りだったろう。

 「自分は音楽家だから、感情を音を使ってしか表現出来ない」という手紙を引用。彼の音楽は、優美、均斉、快活、静穏等々のごく僅かな言葉で出来ていた。

 美は人を沈黙させる。優れた芸術作品は、必ず言うに言われぬ或るものを表現している。これに対しては僕等は止むなく口をつぐむ。そういう沈黙を創り出すには大手腕を要する。

 天賦の才というものが、モオツァルトにはどんな重荷であったか。天才とは努力し得る才だ。凡才は努力を要せず成功する場合には努力はしまい。天才はむしろ努力を発明する。

 モオツァルトの音楽が友人ランゲを捉えて離さなかった。この素人画家は絵筆をとる。画家の友情がモオツァルトの正体と信ずるものを創り出している。

 スタンダアルは、「この天才に於いて、肉体の占める分量は、能う限り少なかった。」と評した。

 モオツァルトの手紙に見る、唐突に見えていかにも自然な転調。モオツァルトのかなしさは疾走する。モオツァルトに心の底があったとする。そこには何かしら或る和音が鳴っていただろう。

モオツァルトのメロディイは一と息で終わるほど短い。或る短いメロディイが、作者の素晴しい転調によって、魔術の様に引延ばされ、聞く者の耳を酔わせる。捕らえたばかりの小鳥の、不安定な美しい命を、籠のなかでどのように生かすか、というところに、彼の全努力は集中されている様に見える。

モオツァルトにとって制作とは、その場その場の取引であった。目的とか企図とかいうものを、彼は知らなかった。大切なのは目的地ではない、現に歩いているその歩き方である。モオツァルトは、目的地なぞ定めない。彼は鎮魂曲の作曲中に死んだ。

引用されたモーツァルトの音楽

1
ドン・ジョヴァンニ (罰せられた放蕩者またはドン・ジョヴァンニ)K.527
1787年31歳の作曲。プラハ初演。台本はロレンツォ・ダ・ポンテ。最後にドン・ジョヴァンニが地獄に落ちる場面が一番の見せ場。

2
ト短調シンフォニイ K.550
モーツァルトには短調の交響曲が2つある(どちらもト短調)。楽譜があげられているのは第40番。1788年32歳の作。初演は不明。演奏をモーツァルトが聴いたという記録はない。

6
「退屈しのぎに四重奏を書いている」
1772年16歳時に彼はミラノで6曲の弦楽四重奏(K.155-K.160)を作曲した。旅に出てすぐの手紙なので、最初の二長調 K.155と思われる。
「六つでメニュエットを作った」
1761-1762年。クラヴィアのためのメヌエット ヘ長調 K.1d, ト長調 K.1e, ハ長調 K.1f, ヘ長調 K.2, ヘ長調 K.4, ヘ長調 K.5
1772年の一群のシンフォニイ
16歳時の交響曲第15番ト長調 K.124から交響曲第21番イ長調 K.134までの7曲。イタリア旅行へ出る前の作曲。
六つの弦楽四重奏曲 K.387-K.465
第14番ト長調 K.387から第19番ハ長調 K.465まで。 1782年(26歳)-1785年(29歳)の作。これを聞いたハイドンから、「ご子息は、私が名実ともに知る限りの最高の作曲家です。」と言われたと、父レオポルト・モーツァルトが伝える。
フィガロの結婚 K.492
原作は『セビリアの理髪師』の続編として1778年にフランスでカロン・ド・ボーマルシェが作。台本化はロレンツォ・ダ・ポンテ


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