モアブ_(ユタ州)
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モアブ

Moab
メインストリート(アメリカ国道191号線)の南を望む
ユタ州内の位置
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度34分21秒 西経109度32分59秒 / 北緯38.57250度 西経109.54972度 / 38.57250; -109.54972座標: 北緯38度34分21秒 西経109度32分59秒 / 北緯38.57250度 西経109.54972度 / 38.57250; -109.54972
アメリカ合衆国
 ユタ州
グランド郡
設立1878年
法人化1902年
政府
 ? 種別市長/市政委員会
 ? 市長デイビッド・サクリソン
面積
 ? 合計3.6 mi2 (9.4 km2)
 ? 陸地3.6 mi2 (9.4 km2)
 ? 水域0.0 mi2 (0.0 km2)
標高4,026 ft (1,227 m)
人口(2020年)[1]
 ? 合計5,366人
 ? 密度1,500人/mi2 (570人/km2)
等時帯UTC-7 (山岳部標準時)
 ? 夏時間UTC-6 (山岳部夏時間)
郵便番号84532
市外局番435
FIPS code49-50700[2]
GNIS feature ID1430389[3]
ウェブサイト ⇒moabcity.state.ut.us

モアブ(: Moab)は、アメリカ合衆国ユタ州の都市。グランド郡郡庁所在地である[4]。人口は5,366人(2020年)。コロラド州境に近く、アーチーズ国立公園キャニオンランズ国立公園の玄関口となっている。スリックロック・トレイルなど広範なトレイルのネットワークを利用するマウンテンバイク乗りや、毎年開催されるモアブ・ジープ・サファリに訪れるオフロード車愛好者の基地として人気がある。
歴史シェイクスピア・キャニオン近くにあるインディアンの岩刻絵

聖書に出てくるモアブという名前はヨルダン川東岸にある地域を指している。歴史家の中には、このユタ州のモアブ市がその名前を使うようになったのは、最初の郵便局長ウィリアム・ピアースが、聖書のモアブもこのユタの地方も共に「遙か遠隔の国」にあると考えたからだと考える者がいる[5][6]。しかし、この言葉はパイユート族インディアンに起源があり、蚊を意味する「moapa」に起因すると考える者もいる[7]。この地域の初期住人の中には、聖書のモアブの民が近親相姦や偶像崇拝などで品位を落とされている故に、名前を変えようとした者がいた。1890年に行われた請願では59人が署名してビナへの改名を求めた[8]。またウバダリアに改名しようという動きもあったが、どちらも失敗した[7]

1800年代、現在のモアブ市周辺は古スペイン・トレイルコロラド川を渡る場所だった。1855年4月、末日聖徒イエス・キリスト教会員が「エルク・マウンテン・ミッション」と呼ばれた川の渡し場に、川を渡る旅人と交易する交易用砦を設けようとした。この任務に40人の会員が呼ばれた。1855年9月23日にピーター・スタッブスの仲間であるジェイムズ・ハットがインディアンに銃で撃たれて殺されたことなど、インディアンの攻撃が繰り返された[9][10]。その最後の攻撃の後、砦は放棄された[11]。1878年、再度恒久的な開拓地を設ける試みが行われた。モアブは1902年12月20日に法人化された[7]

1883年、デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道本線が、ユタ州東部を通って建設された。この線はモアブを通らず、40マイル (64 km) 北にあるトンプソンスプリングスとシスコを通った[12]。その後、リーズフェリー、ナヴァホブリッジ、ボールダーダムなどコロラド川を渡す他の拠点が建設された。これらの変化で交易の道がモアブを離れ、農夫や商人は通り過ぎる旅人との交易から、遠隔の市場まで商品を送る仕事に適応するしかなくなった。間もなく、コロラド川を渡す数少ない天然の渡し場の1つというモアブの位置付けは忘れられた。それでもアメリカ軍が第二次世界大戦までにモアブの橋を護衛下に置くほど重要なものと見なした。

モアブの経済は当初農業に基づいていたが、次第に鉱業に移っていった。1910年代と1920年代に地域でウランバナジウムが発見された。カリウムマンガンが続き、さらに石油天然ガスが発見された。1950年代、地質学者チャールズ・スティーンが市の南で豊富なウラン鉱脈を発見した後は、いわゆる「世界のウラン首都」となった[7]。この発見は、アメリカ合衆国で核兵器原子力の時代到来と重なり、モアブの好況時代が始まった。

市の人口はその後の数年間で500%近く成長し、6,000人近くになった。人口の爆発によって、家屋や学校が多く建てられた。チャールズ・スティーンがモアブで新しい家屋や教会を建設するために、多くの金と土地を寄付した。

冷戦の終焉と共に、モアブのウラン・ブームは去り、市の人口は劇的に減少した。1980年代初期までに、多くの家屋が空き家となり、ウラン鉱山の多くが閉鎖された。1970年代初期にモアブで製造業を奨励する郡が建てた標識

1949年西部劇映画の監督ジョン・フォードが、映画『幌馬車』をこの地域で撮影するよう説得された。フォードは、モアブの南、メキシカンハット周辺のモニュメント・バレーで、10年前の1939年に映画『駅馬車』を撮影していた。モアブの牧場主ジョージ・ホワイトがフォードを見つけて、モアブを一度見て貰うよう連れてきた。その時からアーチーズ国立公園やキャニオンランズ国立公園を背景に使って多くの映画が撮影された。

1970年代から地元経済では観光業が果たす役割が大きくなってきた。ジョン・フォードの映画や雑誌の記事のお陰もあって、写真家、筏乗り、ハイカー、ロッククライマー、さらに近年ではマウンテンバイク乗りのお気に入り場所となった。四輪駆動車やBASEジャンパー、さらにスラックライン(綱渡り)をスポーツとして行う人々の人気も上がってきた。モアブの南約16マイル (26 km) には、岩壁の中に広さ5,000平方フィート (465 m2)、14室を彫り抜いた「ホールN・ザ・ロック」が造られ、雑誌「ナショナル・ジオグラフィック」が国内で道路際の呼び物10傑の1つに挙げることになった[13]。モアブの人口は、屋外レクリエーションや観光産業に季節的に雇われる者が多く、春と夏に一時的に膨れる。

近年、モアブの地域ではセカンドハウス所有者が増えた。比較的温暖な冬と快適な夏という気候が多くの人々を地域に惹き付けてそのような家を建てさせた。アメリカ合衆国西部にある他のリゾート町の状況を反映して、年間の大半は空室のままであるそれら新しい住人と家について議論が持ち上がっている。隣接するコロラド州のベイルやアスペンで経験されたものと類似する変化が起こることを心配する市民も多い。すなわち、地価の急騰、生活費の拡大、それに伴う低・中収入労働者に与える影響である[14][15]

雑誌「サンセット・マガジン」2009年3月号では、モアブを「西部の最良の小さな町20傑」の1つに挙げた[16]。その後も同様な記事が掲載されている.[17]
レクリエーションモアブに近いアーチーズ国立公園にあるデリケートアーチ


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