メートル条約
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メートル条約
条約加盟国.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  加盟国  準加盟国  元加盟国  元準加盟国
署名1875年5月20日
署名場所パリ
発効1876年1月1日
現況有効
文献情報明治19年4月20日官報第837号勅令
主な内容計量単位の国際的統一
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ウィキソース原文
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メートル条約(メートルじょうやく、: Convention du Metre)は、度量衡の国際的な統一を目的として、1875年5月20日に成立したメートル法に関する条約である。14か条の条約本文と附録規定から成る。当時、17か国の代表によりフランスパリで締結された。

この1875年5月20日は、日付時刻の国際規格であるISO 8601(及びJIS X 0301)において、年月日の起点の定義として用いられている(ISO 8601#起点)。
概要

条約に基づき、国際的な計測学メートル法の発展の調整のための研究所と、研究所の運営を監督するための組織を設立した。当初、メートル条約は質量と長さの単位のみを対象としていた。

しかし、1921年の第6回国際度量衡総会(CGPM)により、すべての物理単位を対象とするように方針が改められ、同年10月6日セーヴルで改正条約に署名された。

1960年の第11回国際度量衡総会で、メートル条約により確立した単位系は精査され、「国際単位系(SI)」として再始動した。
国際組織

メートル条約により、以下の3つの国際組織が設立された。

国際度量衡総会(CGPM: Conference generale des poids et mesures) - 4?6年に一度開催され、すべての加盟国の代表者が参加する。

国際度量衡委員会(CIPM: Comite international des poids et mesures) - 18の異なる国からの18人の著名な計測学者からなるCGPMへの諮問機関。総会で決定された事項を代執行する。

国際度量衡局(BIPM: Bureau international des poids et mesures) - 委員会の監督下に設置される。標準に関する国際的研究課題を担当する研究所であり、CGPMとCIPMの事務局でもある。国際キログラム原器の保管を行う。パリ郊外のセーヌ河畔・セーヴルに本部を置く。

条約の加盟国

条約の加盟国は、フランスと外交関係がある国に制限される。ただし、1999年に準加盟国(associate membership)の制度が導入され、BIPMの活動には参加しないが、較正測定の相互承認のためのCIPM-MRA(相互承認協定)に参加できるようになった。
背景1800年に作られた木版。1800年11月4日にフランス中の法律の基準になった新しい十進の単位を示している。

1215年イングランドで制定されたマグナ・カルタの第25条には、領域のいたるところで適用される度量衡の標準について述べられている。条文は「我々の領域の至る所で……1つの度量衡があるべきだ」と強調している[1]。5世紀後の1707年、イングランドとスコットランドがひとつの王国に合併したとき、スコットランド人はイングランドですでに定着していた度量衡を使うことに同意した[2]18世紀、ロシアの皇帝ピョートル1世(大帝)は、貿易を容易にするためにイギリスの度量衡の制度を採用した[3]

計量単位の悪用は、フランス革命の原因のひとつであり、その改革は国民議会の課題のひとつだった。議会の有力なリーダーであるタレーランは、新しい単位系の創設へのイギリスとアメリカの参加を求めた。しかし、結局議会は独自にメートルキログラムを導入した。これがメートル法の基礎を築くことになる。1799年にメートルとキログラムの原器を作成し、公文書館に保管した[4]

1850年から1870年にかけて、スペイン、多くの南米の共和国、イタリア語圏とドイツ語圏の国でメートル法が採用された(オランダは1817年に採用)。1863年万国郵便連合は、許容される手紙の重さを表すのにグラムを使用した。

1860年代メートル原器の検査で、原器の測定表面が消耗していることと、原器を使用中にわずかに曲がっていることが判明した[4]。メートルとキログラムの再現可能性に対する疑いと、対抗する標準が作られるかもしれないというおそれから、ナポレオン3世は全世界の科学者に対しパリでの会議に出席するよう要請した。会議が始まる2週間前の1870年7月に、普仏戦争が勃発した。ドイツの代表団を除いて各国代表は集まったが、ドイツの代表を含めて再度会議を開くべきということで合意した。

フランスは戦争で敗れ、ナポレオン3世は亡命した。ドイツと統一イタリアはメートル法を採用したが、フランス第三共和政管理下のキログラムとメートルの原器の写しは持っていなかった。1872年、フランスの新しい共和政府は再度科学者を招待し、1875年、欧米の30か国の科学者がパリで会合した[5]
1875年の会議

1875年の会議での主要議題は、フランス政府が保持しているメートルとキログラムの原器を置き換えることと、世界中で標準の管理を行うための組織を設立することだった。会議では、メートルとキログラム以外の単位については議論されなかった。普仏戦争の終結直後だったため、会議はフランスとドイツの政争の場になった。フランスはメートル法を支配するという立場を失ったが、それがドイツに移ったというわけではなく、国際的な支配に変わった。管理組織の本部がパリに置かれることとなった[6]
参照される標準1889年から1960年までメートルの基準であった国際メートル原器(レプリカ)。白金とイリジウムの合金でできている。

会議は、既存のフランスの標準に基づく新しい国際標準を議論するために招集された。既存のフランスの標準は1799年に作成された原器に基づくが、すでに70年も使われており、消耗によって制定当時から長さ・重さが変化している可能性があった。

1870年の会議の前に、メートル原器が本来の定義による長さより0.03パーセント(300μm)短かったため、既存のメートル原器が国際社会に拒絶されることをフランスの政治家は恐れ、新しい子午線弧の測定を命じた。ドイツ生まれのスイスの代表が「現代の科学者で、地球の大きさから導き出される1メートルを想定している者はいない」と発言したため、フランスの政治家は安心した。1875年に会議が再召集されたとき、できるだけ厳密に既存の原器の値を再現するために、新しい原器を作成することが提案された[6]

新しいメートル原器は古いメートル原器と同じ長さであるが、測定時の屈曲を減らすために、それまでの長方形の断面から、アンリ・トレスカの考案によるX字型の断面に変更された。また、原器の全体の長さは1メートルより少しだけ長く、両端付近に刻まれた線の間隔が1メートルと定義された[7]。ロンドンの会社ジョンソン・マッセイは、30個のメートル原器と40個のキログラム原器を製造した。1889年の第1回CGPMで、No.6のメートル原器とNo.Xのキログラム原器が国際原器に選ばれた。残りはBIPMでの作業用として保存されるか、各加盟国にその国の原器とするために配布された[8]。国際メートル原器は、1960年にメートルの定義がクリプトン86の発光スペクトルが示す波長に基づいて変更されるまで国際標準として使用された。国際キログラム原器は2019年に施行されたSI基本単位の再定義により廃止された。
組織

条約に基づき、世界中の度量衡の標準化を容易にするための3つの国際組織が設立された。加盟国の代表からなるCGPM、計量学者の諮問委員会であるCIPM、CGPMとCIPMを支援し事務局と研究施設を提供するBIPMである[9]
国際度量衡総会

国際度量衡総会(CGPM: Conference generale des poids et mesures)は、条約によって設置される主要な意思決定体である。加盟国からの代表と、準加盟国からの投票する権利のないオブザーバーからなる。総会は通常4 - 6年おきに開かれ、CIPMからの報告書を元に議論が行われる[10]。ただし、2011年の総会では、CIPMの助言によるSIの新しい進展を支持し、SI基本単位の再定義の議論を行うために次の総会を3年後の2014年に行うことを決議した[11]


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