メーデー
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この項目では、労働者による権利要求のための統一行動日について説明しています。その他の用法については「メーデー (曖昧さ回避)」をご覧ください。

メーデー
2008年5月1日にロシア連邦ウドムルト共和国イジェフスクで行われたロシア共産党による行進
別名国際労働者の日、労働者の日
種類国際デー
日付5月1日
関連祝日レイバー・デー勤労感謝の日
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メーデー(: May Day)は、5月1日に世界各地で行われる労働者祭典。労働者が権利を要求するために行進や集会などを行い、団結の威力を示す。本来は、ヨーロッパの伝統的な祝祭である五月祭を意味する。

国際労働者の日(こくさいろうどうしゃのひ、: International Workers' Day)とも呼ばれる。
概説

「メーデー」とは本来五月祭を意味し、この日にの訪れを祝う祭がヨーロッパの各地で催されてきた[1]。この祭では労働者使用者(労使)双方が休戦し、共に祝うのが慣習であったが、これが近代に入り現在の「メーデー」へと転化し、今日の「労働者の日」メーデーが誕生した[2][3]

労働者の日としてのメーデーは、1886年5月1日に合衆国カナダ職能労働組合連盟(後のアメリカ労働総同盟、AFL)が、シカゴを中心に8時間労働制要求(8-hour day movement)の統一ストライキを行ったのが起源[4]

1888年AFLは引き続き8時間労働制要求のため、1890年5月1日にゼネラル・ストライキを行うことを決定したが、1886年の統一スト後にヘイマーケットの虐殺(Haymarket massacre)[5] といわれる弾圧を受けていたため、AFL会長ゴンパース1889年第二インターナショナル創立大会[6] でAFLのゼネスト実施に合わせて労働者の国際的連帯としてデモを行うことを要請、これが決議され、1890年の当日、ヨーロッパ各国やアメリカなどで第1回国際メーデーが実行された[7]

なお、メーデー起源の国であるアメリカ合衆国をはじめ、メーデーとは異なる時期に「レーバーデー(労働者の日)」を定めている国々もある(「祝日」の節を参照)。
日本におけるメーデー日本における第1回メーデー1926年に大阪市の中之島公園で行われた第7回メーデー

日本では、1905年(明治38年)平民社の主催で開かれた茶話会がメーデーの先駆けと言われている[8]。引き続き1906年に横浜曙会の吉田只次・村木源次郎・金子新太郎らがメーデーを記念し街頭演説、ロシア二月革命後の1917年5月7日に在京社会主義者約30人がメーデー記念の集いを開催した[9]。労働団体が挙行にいたるのは戦後恐慌時の1920年5月2日日曜日[注釈 1] に第1回のメーデー(主催:大日本労働総同盟友愛会 司会者:鈴木文治)が上野公園(現在の東京都台東区)で行われ、およそ1万人の労働者が「八時間労働制の実施」「失業の防止」「最低賃金法の制定」などを訴えた[10]。翌年からは5月1日となり、開催地や参加人数も増えていった。

第二次世界大戦前、最後の全国大会となった1935年(昭和10年)5月1日の第16回大会では、右翼系の組合会議派(総同盟、港湾従業員組合、海員組合、東電従業員組合、官業労働など)約3500人、左翼系の組合(東交、市従、全評、全日映、全国自連、江東一般、純労、東京自動車、朝鮮東興など)約2700人が、それぞれ集会とデモ行進を行った。メーデーの警備や取締は警視庁労働課や警務課などが行い、検束者収容用のトラックが用意されていたが平穏の裡に終わった[11]

しかし、1936年二・二六事件発生により戒厳令が敷かれた後、同年3月19日付けで治安維持を目的とする内務省警保局通牒「集会及多種運動の取締方に関する件」(「多衆運動ハ従来慣行ニ依リ許容ジラレツツアルモノト雖モ右期間中ハ凡テ之ヲキンシスルコト、従テ愛国労働祭又ハメーデー等の計画アル向ニ対シテハ予メ之ヲ中止スル様諭旨スルコト」)が発せられ、3月24日にメーデー開催が禁止された。内務省は、労働団体が労働祭の開催を要望するのであれば、後日、適当な機会に許可するとの意向を示したが、大半の労働団体は5月1日に開催できないのであれば意味はないとして第17回メーデーは中止された[12]。これに反対する無産政党日本労働組合全国評議会(全評)の組合らは3月26日にメーデー禁止措置反対行動を起こし、内務省警視庁へ抗議、4月27日に全評の山花秀雄が組合幹部個人の名義でメーデー実施を指令し、当日は小規模ながらも全国で様々な形の集会やデモが開催された。指令を発した山花はメーデー終了まで愛宕署に検束拘置された。この年から1945年まで日中戦争激化などの理由で開催されることはなかった[13]
第二次世界大戦後再開された第17回メーデー連合主催の第83回メーデー中央大会(演説しているのは内閣総理大臣野田佳彦

第二次世界大戦敗戦翌年の1946年、「働けるだけ喰わせろ」をスローガンに掲げ、11年ぶりのメーデーが通算で17回大会として盛大に開かれた(別名「食糧メーデー」または「飯米獲得人民大会」)[14]。全国で100万人、東京の宮城前広場に50万人が集まった[15]。5月12日には「米よこせ」を叫ぶ市民が宮城内に入り、同19日には「食糧メーデー」が25万人を集めて行われ、民主人民政府の樹立が決議された[16]

1951年の第22回大会では、サンフランシスコ講和条約締結を控えて反対運動の盛り上がりを恐れた政府とGHQは中央メーデーの皇居前広場の使用を禁止したため、総評は中央メーデーを中止し、一方で統一メーデー促進会が「全面講和をかちとれ」「再軍備に反対せよ」のスローガンを掲げて芝公園で実質的な中央メーデーを開催し、戦後初の分散メーデーとなった[17]

日本の主権回復後に行われた1952年の第23回大会では、片面講和と日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約[注釈 2] への抗議も主張に含まれた。その際に皇居前広場へ向かおうとしたデモ隊の一部が警官隊と衝突し、流血の惨事となった(血のメーデー事件[18]

米軍政下で琉球政府時代の沖縄でもメーデーは開催されていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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