メークドラマ
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メークドラマ、メイクドラマ(MAKE DRAMA)は、長嶋茂雄による造語和製英語)である。日本プロ野球読売ジャイアンツ(巨人軍)が「ペナントレースで大逆転を演じる」という意味合いの言葉[1]で、1995年1996年に盛んに使用された。その後、メークミラクル、メークレジェンド、メークヒストリー、リメークドラマ等の造語が派生した。
誕生経緯

「メークドラマ」は1995年に低迷する巨人のナイン(選手)に奮起を促すため、あるいはマスコミに対して逆転の意志を表すために、監督の長嶋によって使われ始めた。しかしこの年は結局ペナントを逃し、リーグ優勝したヤクルトスワローズ監督の野村克也からは、ローマ字読みにひっかけて「負けドラマ」と揶揄されていた。
1996年(メークドラマ)

1996年、この年のシーズンは中盤まで首位が広島東洋カープで、巨人は首位に最大11.5ゲーム差をつけられていた。しかし、11ゲーム差で迎えた7月9日の対広島東洋カープ戦(札幌市円山球場)で、2回二死走者なしから9者連続安打で一挙7点を奪って勝ったのを機に、巨人の快進撃が始まった。

7月16日の対中日ドラゴンズ戦でチーム40勝を達成、その後もゲーム差を縮めていき、100試合目で首位に立った。そして、10月6日の対中日ドラゴンズ25回戦(ナゴヤ球場。これが同球場での最後の公式戦であった)に5-2で勝利し、巨人のリーグ優勝が決まった。11.5ゲーム差をひっくり返し、ここに「メークドラマ」が完成した[2]同年の日本シリーズ(対オリックス・ブルーウェーブ戦)では1勝4敗で敗退したものの、「メークドラマ」はこの年の新語・流行語大賞の年間大賞にも選出され、巨人の大逆転を表す言葉として以後定着することとなる。また、2000年12月31日放送のNHK第51回NHK紅白歌合戦』で審査員を務めた長嶋は、番組冒頭で「メークドラマの始まりです」と述べ開会宣言を行っている。

札幌市円山球場での9者連続安打の全容

後藤孝志 - 左翼線二塁打

村田真一 - 左前安打(打点1)

斎藤雅樹 - 右前安打

仁志敏久 - 中前安打

川相昌弘 - 左翼席満塁本塁打(打点4)

松井秀喜 - 右前安打

落合博満 - 右中間二塁打(打点1)

シェーン・マック - 中前安打(打点1)

清水隆行 - 右前安打

1997年から2007年まで(メークミラクル)

以後、巨人がペナントレースで首位に大きく遅れをとると、各メディアが必ずメークドラマを書き立てることとなる。特にメークドラマのひとつのきっかけとなった円山球場での巨人主催試合(2001年以降は札幌ドームで開催)の時期が近づくと「札幌はメークドラマ発祥の地」などと大きく取り上げられる。だが1997年から2007年までの間は、巨人がシーズン序盤から首位だった2000年2002年2007年を除けば、巨人が大差から逆転優勝を果たしたケースはなかった(巨人以外のものでは、1998年パ・リーグにおいて、西武ライオンズが首位日本ハムファイターズに付けられた最大10ゲーム差をひっくり返して、リーグ優勝している)。

1997年、前年以上にゲーム差が開くと、今度はメークミラクル(Make-Miracle)という言葉が誕生し、メークドラマを上回る大逆転劇をと話題になったが、Bクラスの4位に終わった。メークミラクルという言葉は、巨人が首位中日を猛追した1999年にも各メディアで使われたが、最終的に巨人は2位に終わった。2001年には終盤に巨人が首位ヤクルトに一時1.5ゲーム差まで迫る追い上げを見せ[3]、ミラクルアゲインという言葉が誕生したが、こちらも巨人は2位に終わっている。

2003年、巨人が序盤の時点で首位阪神タイガースに大きく水をあけられ、メークドラマやメークミラクルが各メディアで使われ出した。日本テレビ系列『ズームイン!!サタデー』内「プロ野球熱ケツ情報」(巨人のことを取り上げることが多い)では「メークドラマとメークミラクルでは根本的に違う」「メークドラマでは巨人が逆転優勝できるが、メークミラクルではできないので、メークドラマを使おう」などと巨人ファンに呼びかける場面があった。しかし、この年は結局3位に終わった。

報道陣も首位から10ゲーム差以上離されるとなにかしらメークドラマという言葉にひっかけようとする風潮がある。実際、毎年巨人に限っては11.5ゲームを超えると限界越えなどとマスコミから追い討ちをかけるように騒がれる(これは後述の14.5ゲームを超えた場合も同様の事例がある)。しかし、11.5ゲームを逆転したメークドラマは130試合制であって、当時とは試合数の異なる現在では当てはまらないという声もあり、メークレジェンドはそれが見事的中した形となった。
2008年(メークレジェンド)

この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2008年10月)

序盤の低迷

巨人は、球団ワースト記録となる開幕5連敗を喫するなど開幕直後の10試合で2勝7敗1分とスタートダッシュに失敗、4月4日には単独最下位となるなど遅れを取り、シーズン序盤はBクラスと低迷した。

チームの低迷を重く見た監督の原辰徳は、4月半ばから、一軍の一部基幹メンバーを除いて、一二軍問わず調子が良好な選手を積極的に使う戦略への転換を試みた。不調の主力選手を降格させる代わりに二軍の若手・中堅選手を次々に昇格させ、一軍と二軍の間で調子の良い選手と悪い選手の入れ替えを活発化させ始めた。5月から7月までの3ヶ月間で一軍に上げた選手は延べ34人に上る[4]

さらに、松井以来の10代での開幕スタメンを射止めた高卒2年目の坂本勇人二岡智宏に代わる遊撃手のレギュラーとして定着し、亀井義行脇谷亮太隠善智也加治前竜一などを積極的に日替わりで積極的にスターティングメンバーに起用した。代走・守備固め要員では鈴木尚広古城茂幸などを試合終盤に多く起用。谷佳知木村拓也大道典嘉といった代打要員の中堅・ベテラン選手も日替わりで活躍した。投手でも中継ぎでこの年の新人王を受賞することとなる山口鉄也越智大祐が最終的に70試合近い登板を記録。これに加えて西村健太朗が5月末までに両リーグトップとなる29試合に登板してリリーフ陣を支えた。


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