フェルナン・メンデス・ピント(Fernao Mendes Pinto, IPA: f??'n??? 'm?d?? 'p?tu, 古典ポルトガル語: Fernam Mendez Pinto, 1509年? - 1583年7月8日)は、ポルトガル人冒険家、著述家。ポルトガル最大の冒険家ともいわれる[1]。
16世紀に商人・冒険家として日本を含むアジアやアフリカを旅し『遍歴記』を著したが、嘘や誤りが多いことから「ほら吹きピント」とも呼ばれた[2]。ただし、今日ではそういった評価への疑問も投げ掛けられている[3]。 ピントの業績は死後の1614年に刊行された『遍歴記』 (Peregrinacao) で知られる。ただしこの書物に記載された内容が真実であるかどうか定かではない。確実なのは1537年にリスボンを発ち、1539年にマレー半島のマラッカに行き、現在の東南アジアを見て回り、富を蓄え、中国方面への貿易商を生業としており日本にも渡来していること、1551年フランシスコ・ザビエルに日本に教会を設立する為の資金を提供したこと、その後、ポルトガルに帰ろうと思ってインドのゴアまで戻っていたが、1554年にザビエルのいまだ腐っていなかった(といわれている)遺体を目にして、回心しイエズス会に入会、1556年に日本へ渡ったが、日本でイエズス会を脱退。1558年ゴアへ戻り同じ年にリスボンへ戻ったことなどである。 『遍歴記』に年代は記されていないが、おそらく1544年あるいは1545年にポルトガルの鉄砲を日本に初めて伝えた人物の一人とされている。しかし、ピントが日本に来たのは1540年代後半か1550年代であることが明らかになっており、この鉄砲伝来に関しては不確かである[4][2]。 ピントはポルトガルの東アジアにおける植民地主義に対して、キリスト教の布教に見せかけたものとして鋭い評価を『遍歴記』の中で行っている。これは、後世においては一般的な見方となるが、当時においては斬新な見方であったといえる[5]。 ただし『遍歴記』自体は「13回生け捕られ、17回売り飛ばされた」など、現実としてとらえるには無理があるような記述もあり、古くから嘘つき呼ばわりされた。たとえば、ポルトガル語のだじゃれ遊びには、ピントの名前を、Fernao, Mentes? Minto!、(「フェルナン、嘘をついたか? 嘘をついたよ!」)としたものがあり[6]、イギリスの劇作家、ウィリアム・コンクリーブ ピントはモンテモル・オ・ヴェリョ
概要
生い立ち
1521年にはリスボンでポルトガル王ジョアン2世の息子でモンテモル・オ・ヴェリョの領主でもあったジョルジ公の元で奉公していたが、2年後、フランシスコ・デ・ファリアに奉公するため、セトゥーバルに向けて出航したが、フランスの海賊船に襲われてアレンテジョの海岸まで連れ去られ放置された。 ピントの旅は大まかに3つに分けることができる。最初の旅はポルトガルから西インド海岸のポルトガル植民地への旅であり紅海やアフリカ、ペルシア湾などの地域をめぐっている。その次の旅は、インドに渡った後にマラッカに移り今度はスマトラやシャム、中国、ビルマ、中国、日本などをめぐる旅である。そして、ヨーロッパへ戻る旅である。『遍歴記』の記述の信憑性には疑問があるが、以下ではピントの『遍歴記』にそって話をする。 ピントの旅行は1537年3月11日のリスボン出航から始まる。その後、ポルトガル領モザンビークに寄港。9月5日にはボンベイの北西にある要塞島であり、さかのぼる事2年前にポルトガルに占領されたばかりのディーウに到着。ピントの記録によれば、このときディーウは東洋における貿易を独占し続けるため、ポルトガル勢力を退けようとしたオスマン帝国スルタン・スレイマン1世の統治を受けていたとされる。 この際、ムスリムの貿易船を襲い、その船員から得た儲け話に魅了され、紅海への偵察隊に加わり再び航海に出た。途中、ピントの言うプレステ・ジョアン(ダウィット2世)の母であるエチオピアのヘレナ(エレニ)によって山中に雇われていたポルトガル人傭兵隊に伝言を伝える為、エチオピアに停泊した。その後、エチオピアの港町マッサワを発った所で、オスマン帝国のガレー船を包囲したが、逆に敗北し、アラビアの南西にあるモカ(アル・ムハ
遍歴
インドへの旅ディーウの所在を示す地図