メンシェヴィキ
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メンシェヴィキ(ロシア語: меньшевики?、men'sheviki、「少数派」の意。メンシェビキとも表記される。)は、ロシア社会民主労働党が分裂して形成された、社会主義右派である。ロシアで行われるべき革命は民主主義革命であると主張し、ブルジョワ(中産階級)との協力による漸進的革命を主張したマルトフプレハーノフを指導者とするグループ。1903年のロシア社会民主労働党大会での党綱領決定に際しては勝利したものの、人事問題でレーニンらの派閥(後のボリシェヴィキ)に敗れて「少数派」となったことに由来する。1912年のプラハ大会で両派は党内分派状態から分党になった。1917年の二月革命の勃発当時初はソヴィエト内で優勢であったが、次第に大衆の支持を失った。ボリシェヴィキ主導の社会主義革命である十月革命後は反革命側に立った[1]
分裂の発端

1903年7月・8月の党大会で党規約を審議したさい、規約第一条の「党構成員の資格」をめぐって、意見の対立が生じた。レーニンは党員の資格を「党の組織の一つに属する人のこと」と規定し、もう一つのユーリー・マルトフから提出された規約案では「党の組織の一つの指導のもとに活動する人のこと」という表現がされていた。

記述の上ではそれほど大きな差はないように見えたが、それ以前からレーニンがその著作『何をなすべきか』で組織され訓練された職業的な革命家たちによる小さな党を提唱していたことはよく知られたことだったので、党大会は規約第一条に関する議論で感情が高まり、できたばかりの党組織を分裂させることになった。レーニンはマルトフの描く党組織像を大衆に開かれた党であるとともに官憲に開かれた党であると論難した。大会の全投票において、反対28・賛成23をもってレーニン案は否決された。

ところが党指導部の母体となる雑誌『イスクラ』編集部をレーニンが制し、さらに党規約第一条のマルトフ案に賛成したリトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟(ブンド)の4名が大会を離脱し、レーニン案を支持したものが残った結果としてレーニン支持者が多数派となった。

さらに『イスクラ』の編集部から古参革命家であるヴェーラ・ザスーリチパーヴェル・アクセリロード、ポトレーソフを解任することをレーニンが提案し、今や少数派となった「反対派」がそのことに反発し、新編集局と党中央委員会に自派の候補者を参加させることを拒否した。このときからボリシェヴィキとメンシェヴィキは別々の会議を持ち始め、お互いの誹謗中傷に熱中するようになる。
第一次世界大戦まで

メンシェヴィキは党大会で一時少数になっただけで、党外のヨーロッパ社会主義運動では広い支持を獲得していた。特にドイツ社会民主党のカール・カウツキーは、レーニンの論文を自分の新聞に掲載することを禁じ、ローザ・ルクセンブルクはレーニンの「超中央集権主義」を非難したのであった。

メンシェヴィキは統率の緩やかな集団であり、強力な指導者がいない代わりに、著名な古参革命家を数多く含んでいた。ゲオルギー・プレハーノフとともに1880年代に労働解放団を組織した仲間たちである。彼らはナロードニキからその政治活動を出発しマルクス主義を受け容れることで、農民ではなく工業プロレタリアートが革命の主体である、来るべき革命は「ブルジョア革命」である、との見解をとるようになった。


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