メル_(ドゥー=セーヴル県)
[Wikipedia|▼Menu]

Melle

行政
フランス
地域圏 (Region)ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏
(departement)ドゥー=セーヴル県
(arrondissement)ニオール郡
小郡 (canton)メル小郡
INSEEコード79174
郵便番号79500
市長任期)イヴ・ドゥビアン
2014年 - 2020年
自治体間連合 (fr)fr:Communaute de communes du Mellois
人口動態
人口3656人
2013年
人口密度375人/km2
住民の呼称Mellois
地理
座標北緯46度13分22秒 西経0度08分38秒 / 北緯46.2228度 西経0.1439度 / 46.2228; -0.1439座標: 北緯46度13分22秒 西経0度08分38秒 / 北緯46.2228度 西経0.1439度 / 46.2228; -0.1439
標高平均:m
最低:87m
最高:174 m
面積km2
Melle
公式サイト ⇒www.ville-melle.fr
テンプレートを表示

メル (Melle)は、フランスヌーヴェル=アキテーヌ地域圏ドゥー=セーヴル県コミューン
目次

1 地理

2 歴史

3 人口統計

4 史跡

4.1 サンティレール教会

4.2 サン=ピエール教会

4.3 サン=サヴィニアン教会


5 ゆかりの人物

6 脚注

地理

メルを取り巻く地方は、牧草地、クリやクルミ、マツが植えられた森林があり、緩やかな起伏となっている。地質は、石灰岩質の断片が点在する粘土状の土壌で構成されている。土地は肥えており、ウマゴヤシツメクサイワオウギ、コムギの栽培を可能にしている。

メルの町は、メロワ台地の中心にある岩の露頭の上に築かれている。ニオールの南東27km、ポワティエから60km、サン=ジャン=ダンジェリから45km離れている。メルは1926年まで準県都であり、以後は小郡が置かれている。メルはフランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路、トゥールの道(fr:Via Turonensis)の途上にある。
歴史

人の定住は古代からあった。シャン・ペルセでの考古学的発掘では、2世紀と4世紀の未発掘の墓が発見されている[1]

古い町の名称Metullumの起源は不確かである。一部の人々は、ラテン語 metallum(鉱物や金属を意味する)の破壊された形態か、metula(小さな境界石)から派生したとみなしている。名称はケルト語起源をもつmetlから派生した可能性が高い。地名においてよく証言される名称であるが、正確な意味は議論されている。高さ、または囲い地か[2] 銀鉱山での鋳造の実演

中世最盛期のメルは、硬貨鋳造の活発な地であった。町の中や周辺に重要な銀鉱山があったからである[3]。鉱山は少なくとも602年から995年まで利用されていた。鉱物から方鉛鉱が取り出された。銀を含む鉛である。鉛は最初、フランク族の王に忠誠を示すため用いられた。ダゴベルト1世の時代、毎年8000リーヴルがパリに送られ、鉛はサン・ドニ大聖堂の防備に使われた。

硬貨鋳造は768年から1189年まで盛んであった。硬貨の製造は、特に864年にシャルル2世の勅令のおかげで活動維持を認可された10軒の工房で盛んだった[4] 。そこは広大なアキテーヌの中で唯一合法に行われていた。2種類の硬貨が鋳造されていた。オボルスデナリウスである。

工房での活動は以下のように記述されている。『望むように地金が複数のポンドごと切り分けられた。金の厚さを薄くして金塊を打ち出し、金づちで叩いてそれらを丸くして、定められた目方にした。硬貨の原盤は彫って作られ、両面に王家のモノグラムである刻印を打った。それは皇帝の名か、工房の名称だった。メルで鋳型が発見されており、CARLUS REX FRの銘が刻まれたものがニオールの歴史博物館に収められている。ルイ敬虔王の金塊の背面には、2本の金づちが表されており、2つの鋳型には、METALLVM(メル)の名が鋳造工房の名の代わりに取り巻くように刻まれている。鋳造がここで行われていた。』[5]

今日、古い銀鉱山の一部を訪れることができる。この銀鉱山は訪問できるものの中で最古の鉱山である。この銀鉱山はボヘミアの銀鉱山より何世紀も先んじていた。

848年、首領ハスティング(fr)に率いられたヴァイキングたちがメルを探して略奪をはたらいた[6][7]。1000年の少し前には、工房はニオール、サン=ジャン=ダンジェリ、ポワティエに移っていった。この時代の鉱山の不満は、鉱脈の枯渇、または政治的・経済的変化に起因する可能性がある。少なくとも彼らは地震に持ちこたえられなかった。

町は3年前に調印されたブレティニーの和議により1363年、エドワード3世の王子トマス・オブ・ウッドストックに与えられた[8]

第5次ユグノー戦争中、1575年にモンパンシエ公ルイ3世は、3日間の包囲の後に知事を拘束し、メルを攻略した。カトリーヌ・ド・メディシスも、1586年に娘婿のアンリ・ド・ナヴァール(のちのアンリ4世)とメルで面会している。

1790年から1795年まで、メルは地区の中心地であり、1800年から1926年まで郡庁が置かれていた。
人口統計

1962年1968年1975年1982年1990年1999年2008年2013年
37624257440241194003385136233656

参照元:1962年から1999年までは複数コミューンに住所登録をする者の重複分を除いたもの。それ以降は当該コミューンの人口統計によるもの。1999年までEHESS/Cassini[9]、2004年以降INSEE[10][11]
史跡 サンティレール教会ファサード サン=ピエール教会 サン・サヴィニアン教会内部

中世の要塞の遺構のほか、メルには興味深い3つのロマネスク様式の教会がある。
サンティレール教会


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:24 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef