メルヴ
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出典検索?: "メルブ遺跡" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2023年5月)
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「メルブ」はこの項目へ転送されています。現代の都市については「マル (トルクメニスタン)」をご覧ください。

国立歴史文化公園
「古代メルブ」
トルクメニスタン

スルタン・サンジャルの霊廟(ロシア語版、英語版)
英名State Historical and Cultural Park "Ancient Merv"
仏名Parc national historique et culturel de l’≪ Ancienne Merv ≫
登録区分文化遺産
登録基準(2),(3)
登録年1999年
公式サイト世界遺産センター(英語)
地図

使用方法表示

メルブ(ペルシア語 : ??? Merv/Marw, Mary)とは、トルクメニスタンカラクム砂漠の中にある、中央アジア最大の遺跡。トルクメニスタンではマル(またはマルイ、マリイ)と呼ばれている。1999年、トルクメニスタン初の世界遺産に登録された。

もとはホラーサーン地方の中心都市のひとつで、シルクロードオアシス都市として栄えた。人口は100万人に達したといわれる。

榎一雄南北朝時代職貢図に記載された「未国」をメルブと比定する説を提出している[1]。メルブには仏教が伝播しており(後述)、またの武帝・蕭衍は、仏教信徒としても高名で「皇帝菩薩」と呼ばれていたため、仏教を通じた交流も考えられる[2]メルヴに残る「エルク・カラ」の遺構
歴史
マルグ詳細は「en:Margu」を参照

紀元前6世紀から、アケメネス朝ペルシャの支配下にある一オアシス都市として繁栄し始める。当時は、「マルグ(英語版)」(サトラップ)と呼ばれ、マケドニア王国期には「マルギアナ」と呼ばれた。「マルギアナ」の遺構は、円形の日干レンガ城壁で囲まれた「エルク・カラ」として知られる。「エルク・カラ」は、12haに達する都市であった。
パルティア時代とギャウル・カラ

その後、セレウコス朝時代をへて、前2世紀 - 後3世紀のパルティア時代に、「エルク・カラ」を北辺に組み込んだおおむね一辺1.8 - 9kmの方形に近いプランの「ギャウル・カラ」(「グヤウル・カラ」)が築かれた。面積は、約3.5km2で、城壁に囲まれ、十字に交差する道路で街区が造られていた。

「ギャウル・カラ」の外側にも、楕円形に近い形に城壁がめぐっていて、内側の城壁から外側の城壁への距離は、北へは3km、東西、南方向へは、3.5kmであり、総面積は、60km2に及んだ。ギャウル・カラは、サーサーン朝の滅亡する7世紀まで機能していた。
仏教の伝播

メルブには、紀元後1世紀頃に仏教が入ってきたと考えられ、城壁の南東すみに、仏寺跡とみられる遺跡がある。他にも当時の仏塔や僧院が残されており、8.5cmの仏像の座像と土器に入った経文が発見されている[3]。経文は、白樺樹皮にサンスクリット語で書かれていた。
イスラーム以降

7世紀に西方のアラビア半島からイスラームが勃興し、サーサーン朝を滅ぼすと、第3代正統カリフウスマーンの時代からアラブ軍によるホラーサーン遠征が本格化するようになった。

649年にバスラ総督に任命されたアブドゥッラー・イブン・アーミルは自らアラブ軍を率いてホラーサーン諸都市を征服し、ヘラートを征服した。のちにメルヴの住民はイブン・アーミルに投降し、メルヴはアラブの支配下になった。以降、この地は8世紀になるまでマー・ワラー・アンナフルアフガニスタン遠征の拠点となる。この頃からメルヴはアラビア語でマルウ・アッシャーヒジャーン(Marw al-Sh?hij?n)と呼ばれるようになった。
セルジューク朝時代

セルジューク朝1038年 - 1194年)時代になると、「ギャウル・カラ」の西に接して概ね楕円形の「スルタン・カラ」が築かれた。

このころ、メルブが最大の栄華を誇ったとされ、数万冊の蔵書があったという図書館が8つあり、天文台も築かれた。『ルバイヤート』で知られる著名な詩人、数学者であったウマル・ハイヤームも、この時期のメルブの天文台主任として活躍した。

1097年、セルジューク朝の王子サンジャル(のちのスルタン・サンジャル(位1118 - 1157)がホラーサーン地方を支配するよう分邦されると、彼はメルヴに自らの宮廷を置いた。1118年スルターンに即位するとメルヴは彼の元でホラーサーン地方を含むセルジューク朝の東部全域の首都となった。

かつては青タイルで装飾されていたサンジャルの廟もこの「スルタン・カラ」のほぼ中央に建てられた。スルタン・サンジャル霊廟(ロシア語版、英語版)は、外壁5m、基礎6mという堅牢なもので、後のモンゴル軍の破壊や地震にも奇跡的に耐え抜き、当時の建築技術の高さをうかがわせる。
モンゴル帝国による破壊

1219年からホラズム・シャー朝はモンゴル帝国の攻撃を受け(モンゴルのホラズム・シャー朝征服)、メルヴにモンゴル軍の接近が伝わると町は混乱し、内紛が相次いだ。1221年2月25日にチンギス・ハンの皇子トゥルイがメルヴに現れ、400人の職工と奴隷としたわずかな少年少女を除く、降伏した知事、富豪、市民が殺害された。城内では略奪が行われて城壁と内城は破壊され、サンジャルの霊廟は財貨を探す兵士によって掘り返された後に火を放たれた。モンゴル軍の攻撃によって殺害されたメルヴの人間について、およそ700,000人、あるいは1,300,000人以上とも史料に伝えられている。トゥルイの軍がメルヴを離れた後、地下室に隠れて虐殺を逃れた5,000人の市民が地上に姿を現すが、トゥルイの後を追ってメルヴを通った別のモンゴル軍の司令官によって、彼らも殺害された。[4]虐殺が行われた後、他の土地に避難していた市民や近隣の住民がメルヴに集まるが、ホラズム・シャー朝の軍隊がメルヴを奪還した後、モンゴル軍の報復を受けた町は再び破壊と虐殺に見舞われた。モンゴルが任命した知事アク・マリクによって徹底した生存者の捜索と処刑が行われ、生き残ったのはわずか数人の住民だけだった。[5]

一連の破壊の後にメルヴの砦が一から再建されたことが発掘調査によって明らかになったが、町の繁栄は過去のものとなっており、モンゴル軍の侵入は一世紀以上にわたってメルヴや他の都市に没落をもたらした。モンゴルの征服後、メルヴはイルハン朝の領土に含まれ、常にチャガタイ・ハン国から略奪を受けていた。


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