メルチョル・カノ
[Wikipedia|▼Menu]
メルチョル・カノParecer del M. fr. Melchor Cano dado al Senor Emperador Carlos V (1555).[1]

メルチョル・カノ(Melchor Cano、1509年1月6日? - 1560年9月30日)は、ルネサンス期スペイン神学者哲学者

ドミニコ会士16世紀サラマンカ学派におけるビトリアの後継者として知られる。
略歴

タランコンに生まれる。サラマンカ大学で勉学中の1523年ドミニコ会に入会し、フランシスコ・デ・ビトリアのもとで学んだ。その後バリャドリッドのドミニコ会学院で哲学神学を教えた。1542年にはアルカラ大学の神学教授(1546年まで)になり、1546年ビトリアが死去すると、サラマンカ大学で師が担当していた神学講座を引き継いだ。1550年にはインディアス先住民インディオ)問題に関してラス・カサスセプルベダが争った「バリャドリッド論争」に審議会委員として参加、ラス・カサスを支持した。翌1551年から1552年まで、スペイン国王(カルロス1世)でもあった皇帝カール5世の要請により、皇帝任命の神学顧問としてトリエント公会議に参加した。1554年にはバリャドリッドのドミニコ会学院の院長に就任し、ここで国王フェリペ2世の政策を支持し教皇パウルス4世と対立したため、教皇庁の顰蹙を買い、また設立されたばかりのイエズス会を非難した。これらのことがあってカノは1557年以来再度管区長に選出されたにもかかわらず、パウルス4世の承認を得ることができず、ピウス4世によって1560年ようやく承認を受けたが、同年のうちにトレドで死去した。
業績

R・アグリコラ人文主義弁証法に影響を受け、主著『神学的証泉』で神学の方法論を確立した。著名な弟子として同じサラマンカ学派のドミンゴ・バニェスがいる。
著作Opera, 1746

『神学的証泉』(De Locis Theologicis) 1563年

参考文献
事典項目


J・アリエタ 「カーノ」 『
新カトリック大事典』第T巻 研究社1996年

単行書・論文


クラウス・リーゼンフーバー 『中世思想史』 平凡社ライブラリー2003年 ISBN 9784582764857

飯塚一郎 『貨幣学説前史の研究』 未来社1969年

同 「スペインの初期経済学」 小林昇(編) 『経済学の黎明』〈講座経済学史T〉 同文舘出版1977年所収

同 『大航海時代へのイベリア:スペイン植民地主義の形成』 中公新書1981年

脚注^Parecer del Maestro fr. Melchor Cano dado al Senor Emperador Carlos V. Madrid: 1736. Cervantes Virtual. Consultado el 10/07/2013.











ドミニコ会
ドミニコ会士

ドミニコ

アルベルトゥス・マグヌス

トマス・アクィナス

シエナのカタリナ

フラ・アンジェリコ

ヴィテルボのアンニウス

マイスター・エックハルト

ジロラモ・サヴォナローラ

バルトロメ・デ・ラス・カサス

ドミンゴ・フェルナンデス・ナバレテ

トマス西

ジャチント・ジョルダーノ・アンサローネ

大村のマリナ

長崎のマグダレナ

ロレンソ・ルイス

マルティン・デ・ポレス

リマのローザ

メルチョル・カノ

ベルナール・ギー

グスタボ・グティエレス

ジャック・クレマン

ディエゴ・コリャード

イヴ・コンガール

クリストフ・シェーンボルン

ドミンゴ・デ・ソト

ドミンゴ・バニェス

ジャック・バルレリエ

フランシスコ・デ・ビトリア

リアーヌ・ド・プジー

ジョルジョ・ラ・ピーラ

フアン・コボ

フランシスコ・フェルナンデス・デ・カピリャス

ビセンテ・フェレール

ハインリヒ・クラーマー

トマス・デ・メルカード

ヨハンネス・プフェファーコルン

羅文藻

ペドロ・サンス・ホルダ

伝道施設

サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会

サンタ・サビーナ聖堂

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:16 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef