メルセデスAMG_F1
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この項目では、メルセデス・ベンツ傘下のF1チームについて説明しています。同傘下の自動車チューナーについては「メルセデスAMG」を、その他の用法については「AMG」をご覧ください。

メルセデス
Mercedesエントリー名メルセデスAMG・ペトロナス・フォーミュラワン・チーム

チーム国籍 ドイツ
チーム本拠地 イギリス
イングランドノーサンプトンシャー州ブラックリー(英語版)
チーム代表者トト・ヴォルフ
(ヘッドオブモータースポーツ)
ハイウェル・トーマス
(マネージングディレクター)
テクニカルディレクタージェイムズ・アリソン
2024年のF1世界選手権
ドライバー63. ジョージ・ラッセル
44. ルイス・ハミルトン
テストドライバー ミック・シューマッハ
シャーシF1 W15 E Performance
エンジンメルセデス M15 E Performance
タイヤピレリ
F1世界選手権におけるチーム履歴
参戦年度1954-1955
2010-
出走回数293
コンストラクターズ
タイトル
8(2014, 2015, 2016, 2017, 2018, 2019, 2020, 2021
ドライバーズ
タイトル
9(1954, 1955, 2014, 2015, 2016, 2017, 2018, 2019,2020
優勝回数125
通算獲得ポイント7,222.5 (7,361.mw-parser-output .frac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .frac .num,.mw-parser-output .frac .den{font-size:80%;line-height:0;vertical-align:super}.mw-parser-output .frac .den{vertical-align:sub}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}16⁄25)[注 1]
表彰台(3位以内)回数289
ポールポジション137
ファステストラップ105
F1デビュー戦1954年フランスGP
初勝利1954年フランスGP
2023年順位2位(409ポイント)
(記録は2023年最終戦アブダビGP終了時)
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メルセデスベンツ・グランプリ・リミテッド(Mercedes-Benz Grand Prix Limited)は、モータースポーツ世界選手権「フォーミュラ1」で活動しているドイツのコンストラクター。チーム名称は「メルセデスAMG・ペトロナス・フォーミュラワン・チーム」(2024年時点)。旧名「メルセデスGP」。母体は自動車メーカーのメルセデス・ベンツ

(※本項では、ダイムラーのブランドであるメルセデス・ベンツ(以下メルセデス。ダイムラーについて言及するときも同様)によるレーシングコンストラクターについて説明する。近年のチーム名称は、その年々のタイトルスポンサーを冠するのが標準となっている。各SNSなどでは「Mercedes-AMG F1」という呼称を公式に使っており、本項タイトルもそれに準ずる)
歴史詳細は「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」を参照

メルセデスは2009年11月16日ロス・ブラウンが所有するブラウンGPを買収してメルセデスGPとすること、株式をメルセデスが45.1%、アブダビ企業のアーバー・インベストメンツが30%取得したことを発表しした[1]。メルセデスのグランプリ参戦は1955年以来54年ぶりである。本項ではメルセデスベンツのすべてのレース参戦記録について述べる。

メルセデスAMG(GP)以前のメルセデスのグランプリでの活動はいくつかの時代に分けられる。まず1935年から1939年までの活動、次が1954年と1955年。そして1993年から2009年に至るまでのエンジンサプライヤーとしての活動である。
1930年代

メルセデス・ベンツの車両は第二次世界大戦前からモータースポーツに盛んに登場していた。

1935年から1939年の第二次世界大戦勃発まで、メルセデス・ベンツとアウトウニオンのドイツ勢は、ヨーロッパのモータースポーツ界を完全に席巻し、F1世界選手権の前身である[2]AIACRヨーロッパ選手権のタイトルをメルセデスとアウトウニオンが独占した。

メルセデス・ベンツチームはレース監督アルフレート・ノイバウアー(サインボードの発明者である)により、まさに軍隊的規律の元でレースに臨み、結果を出し続けた。

戦前のグランプリ・レース用主要マシンはW25(1934年 - 1936年)、W125(1937年)、W154(1938年・1939年)、W165(1939年)で、いずれもフロントエンジンながら、時代の最先端を行く性能を有していた。当時の主要ドライバーは、ルドルフ・カラツィオラ(1935年、1937年、1938年ヨーロッパチャンピオン)、マンフレート・フォン・ブラウヒッチュ(Manfred von Brauchitsch)、ヘルマン・ラング(Hermann Lang)(1939年ヨーロッパチャンピオン)、ディック・シーマン(Dick Seaman)。シーマンのみ、英国出身で、他は皆ドイツ人である。

1937年に登場したマシンW125に到っては600馬力を超えるエンジンを持ち、最高速度は現代のF1と遜色ない340km/h以上に達し、そのためW125はターボ・マシン登場以前の1970年代後半になるまで史上最強・最速のレーシング・カーであるとの伝説を保ち続けていた。

同年のアーヴス・レンネン(アーヴスレース;フリー・フォーミュラ=制限なしで行われた)では、ヘルマン・ラングが特製された流線型ボディのW25に乗り、260.7km/hという現代でも驚かされるような平均速度で優勝しているが、クローズド・サーキットの記録としてはその後20年以上及ぶものはなく、オーバルを使用するインディ500において優勝者の平均速度がこの記録を上回るのは1972年のマーク・ダナヒュー(マクラーレン・オッフィー)の平均261.08km/hを待たねばならないほどである。メルセデスとアウトウニオンは、同年のアーヴス・レンネンの直線では、実に380km/hを出していたと言われている。

1939年のトリポリグランプリ(イタリア領リビアのメラハサーキットで開催。メラハサーキットは一周13kmの高速コースで、当時『モータースポーツのアスコット』と呼ばれていた)は、レース開催の8か月前になって、強すぎるドイツ勢を締め出すべく、当時の国際フォーミュラである3リッター・マシンではなく、イタリア国内ルールである1.5リッター・マシンで実施されることとなった。イタリア側としては短期間での新型メルセデス、新型アウトウニオンの製造は不可能と考えたためであるが、メルセデス・ベンツチームはその当時の3リッター・マシン、W154のミニチュアともいうべきW165を短期間で完成させ、同グランプリにおいてもメルセデス以外の全車を周回遅れとして1-2フィニッシュ(ラング、カラツィオラ)を飾ることとなる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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