メルキュール・ド・フランス
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メルキュール・ド・フランス
Mercure de France
『メルキュール・ガラン』誌創刊号 (1672年)
ジャンル政治文芸
刊行頻度月刊
発売国 フランス
言語フランス語
出版社ガリマール出版社
ISSN1149-0292
刊行期間1672年 -
ウェブサイトMercure de France
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『メルキュール・ド・フランス』(Mercure de France) は、フランスで17世紀に発刊された文芸誌である。発行母体が度々変遷した後、現在はガリマール出版社グループに吸収されている。
概要

もともと、1672年から1674年まで『メルキュール・ガラン』(Mercure galant, Mercure gallant) という名前で発刊されたのが始まりで、一時休刊を挟んで、1677年から1724年まで『ヌーヴォー・メルキュール・ガラン』(Nouveau Mercure galant) として刊行された。1724年、『メルキュール・ド・フランス』と改称された。1811年から1815年までの間、ナポレオンの下、出版禁止を受け、1825年、廃刊となった。

1890年象徴主義芸術を支持する文芸批評誌として復刊された。
初代『メルキュール・ド・フランス』

『メルキュール・ガラン』誌は、1672年、著述家ジャン・ドノー・ド・ヴィゼによって創刊された。名称は、ローマ神話に登場する神々の伝令使メルクリウスに由来するとともに、パリの本屋J. Richerが1611年に創刊したフランス最初の文芸誌『メルキュール・フランソワ』(Mercure francoys) にもちなんでいる。

『メルキュール・ガラン』誌の目的は、知識人階級に、宮廷生活や学問的・芸術的議論を紹介することであり、不定期に発刊され、詩、逸話、ニュース(結婚の情報やゴシップ)、舞台、芸術批評、歌、ファッションなどを取り上げた。この雑誌に取り上げられることが、流行の証(時にはスキャンダル)となった。1674年に休刊したが、1677年、『ヌーヴォー・メルキュール・ガラン』という名前で復活し、毎月刊行されるようになった。

『メルキュール・ガラン』は、ファッション界の初めての雑誌であり[1]、ジャーナリズムの歴史の中で重要な意義を有する。ルイ14世治世下におけるファッション、贅沢品、エチケット、宮廷生活などを地方や国外に広める上で大きな役割を果たした。1670年代には、新しいシーズンのファッションに関する記事が、版画付きで掲載された[2]。1697年8月号には、当時の新しいパズルゲーム、ペグ・ソリテールについての詳しい説明が載っており、このゲームに関する最も古い資料となっている。

同時代の著述家からからかいの対象となることも多かった。劇作家エドム・ブルソー(英語版)は、気取った社交を批判した作品に『メルキュール・ガラン』という題名を付けた。ドノー・ド・ヴィゼの抗議を受けて、ブルソーは『題名のない劇』と付け直した。

17世紀の芸術・文学が古代の芸術・文学より優れているかという、18世紀初頭まで続いた「古代・現代論争」においても重要な役割を果たした。ベルナール・フォントネルと『メルキュール・ガラン』は「現代派」に属したのに対し、ニコラ・ボアロー=デプレオーは「古代派」の頭目に押し上げられ、ジャン・ラシーヌジャン・ド・ラ・フォンテーヌジャン・ド・ラ・ブリュイエールがこれを応援した。

雑誌は商業的に成功し、ドノー・ド・ヴィゼは相当の収入を得た。フランス芸術・人文科学の世界における審判としての地位を得、革命前フランスにおける最も重要な文学雑誌と呼ばれる[3]

トマ・コルネイユ(英語版)は、頻繁に寄稿した。ドノー・ド・ヴィゼが1710年に死去してからも刊行が続けられた。1724年、『メルキュール・ド・フランス』と改称され、政府に任命された編集委員が入ることにより、準公的性格を有するようになった。利益は、執筆者の年金に充てられることになった。ジャン=フランソワ・ド・ラ・アルプ(英語版)が20年以上にわたり編集主幹を務め、ジャック・マレ・デュ・パン(英語版)も協力した。その他の著名な編集者・寄稿者として、ジャン=フランソワ・マルモンテル(英語版)、ギヨーム・トマ・フランソワ・レナール(英語版)、ニコラ・シャンフォール(英語版)、ヴォルテールなどがいる。

バロック」という言葉の使用例として確認できる最も古いものが、『メルキュール・ド・フランス』1734年5月号であり、ジャン=フィリップ・ラモーの『イポリートとアリシー』に対する匿名の風刺的批評で、軽蔑的に用いられている。

フランス革命直前に、経営権がシャルル=ジョセフ・パンクーク(英語版)に譲渡された。革命の間、一時的に『ル・メルキュール・フランセ』と改称した。1811年、ナポレオンにより出版が禁止されたが、1815年復刊した。最後の出版が1825年である。
復刊後の『メルキュール・ド・フランス』

19世紀末、アルフレッド・ヴァレット(英語版)が、パリ6区カフェ「ラ・メール・クラリス」に集まった象徴主義詩人ら(ジャン・モレアス、エルネスト・レイノー(フランス語版)、ジュール・ルナールレミ・ド・グールモン、ルイ・デュミュール(フランス語版)、アルフレッド・ジャリ、アルベール・サマン(フランス語版)、サン=ポル=ルーアルベール・オーリエ、ジュリアン・ルクレルク(フランス語版))とともに文芸誌『メルキュール・ド・フランス』を再刊した。第1号は1890年1月1日に刊行された。

その後の10年間に、出版事業は成功し、ステファヌ・マラルメやジョゼ=マリア・ド・エレディア(英語版)といった詩人も新作を発表するようになった。1905年からは隔月刊となった。

1889年、アルフレッド・ヴァレットは、小説『ヴィーナス氏』が不道徳だとして非難を浴びた作家ラシルド(英語版)と結婚した。ラシルドは、1924年まで編集委員を務め、彼女の個性と作品も雑誌の知名度向上に貢献した。ラシルドは火曜日にサロンを開いて人を集め、この「メルキュールの火曜日」は作家たちの間で有名になった。

当時の他の批評誌と同様、『メルキュール』誌でも、1894年から書籍の出版を始めた。象徴派の作品のほか、フリードリヒ・ニーチェの最初の仏訳、アンドレ・ジッドポール・クローデルシドニー=ガブリエル・コレットギヨーム・アポリネールの書き下ろし作品、トリスタン・クリングゾル(英語版)の詩などを刊行した。その後は、アンリ・ミショーピエール・ルヴェルディピエール・ジャン・ジューブルイ=ルネ・デ・フォレピエール・クロソウスキー、アンドレ・デュ・ブーシェ(英語版)、ジョルジュ・セフェリ、ウジェーヌ・イヨネスコイヴ・ボヌフォワの著作などを出している。

1935年にヴァレットが死去すると、経営権は、1912年から編集に加わっていたジョルジュ・デュアメルに引き継がれた。1938年、デュアメルはその反戦姿勢が理由で更迭され、ジャック・ベルナール(英語版)がこれに代わった。ベルナールは、ドイツへの戦争協力を理由に逮捕され有罪判決を受けた。第2次世界大戦後、支配株主であったデュアメルは、レジスタンスに参加していたポール・アルトマンを経営者に指名した。

1958年、ガリマール出版社グループが『メルキュール・ド・フランス』を買収し、シモン・ガリマールが社長に任命された。1995年、イザベル・ガリマールが出版社の経営を引き継いだ。
脚注^ DeJean, 47.
^ DeJean, 63.
^ Darnton, Robert; Roche, Daniel (1989). Revolution in Print: The Press in France 1775?1800. Berkeley, CA: University of California Press. p. 148. .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 0-520-06431-3. https://books.google.co.jp/books?id=_aVPJtVWbyQC&printsec=frontcover&dq=Revolution+in+Print:+The+Press+in+France+1775%E2%80%931800&hl=en&ei=9OWvTLqiDIO88gah__WiCQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false 


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