メリーさん
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この項目では、横浜で目撃された老女について説明しています。その他の用法については「メリーさん (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2012年2月)

メリーさん(本名不詳、1921年[1] - 2005年1月17日[2])は、神奈川県横浜市の中心部でしばしば目撃された伝説的な娼婦。白塗りの厚化粧にフリルのついた純白のドレスという印象的な風貌や謎に満ちた人物像から、数多くの歌や文学、演劇の題材となった。
呼び名について

第二次世界大戦終戦後、進駐軍兵士相手に身体を売っていた「パンパン」と呼ばれる娼婦だと噂され、「皇后陛下」「白狐様」「クレオパトラ」「きんきらさん」などの通り名で呼ばれていた[3]。1980年代に入った辺りから「(港の)マリーさん」と呼ばれ出し、同じく80年代の後半から「メリーさん」と呼び名が変化したようである[3]。また「西岡雪子」という仮名もあり、他にも「ホワイトさん」、「白いお化け」などと呼ばれるとともに都市伝説にもなった[4]。そして後年ドキュメント映画がヒットした影響から「ヨコハマメリー」「ハマのメリーさん」[5]などと呼ばれることが多くなった。
来歴・生涯
前半生

岡山県出身。実家は農家で女4人、男4人のきょうだいの長女として生まれる[6]。実弟の話によると、地元の青年学校を卒業後に国鉄職員と結婚。その後、戦争が始まり軍需工場で働きに出るが、人間関係を苦に自殺未遂騒動を起こす。この出来事が原因で結婚からわずか2年で離婚、子供はいなかったという[6]。戦後、関西のとある料亭(実際は米兵相手の慰安所だった)で仲居として働いた後、そこで知り合った米軍将校愛人となる。彼に連れられ東京へ出るが朝鮮戦争勃発後、現地へ赴いた彼は戦争が終結するとそのまま故郷のアメリカ合衆国へ帰り日本には戻らなかったという。
横浜時代

残された彼女はその後、横須賀を経て横浜へと移り米兵相手の娼婦としての生活を始める。以後は在日米軍基地に数十年間に渡り居住した[7]。中村高寛監督の映画『ヨコハマメリー』によると来浜の時期は1963年とのことだが、檀原照和著『消えた横浜娼婦たち』によれば1955年には既に伊勢佐木町で目撃されていたという。彼女の存在が注目されだしたのは、1980年代に入ってからである[7]。折しも「なんちゃっておじさん」や「歌舞伎町のタイガーマスク」など、町の奇人たちがメディアに採り挙げられていた時期と重なる。

イセザキモール入口付近にあった「森永LOVE」伊勢佐木町店(現在は閉店)の常連客だった時期があり、来店した際には「砂糖入りの白湯」(同店の正規メニューではない) を愛飲していた。横浜での晩年は伊勢佐木町に近い歓楽街福富町の商業ビル「GMビル」をホームにしていた。朝方になるとトイレのある7階の通路で、手荷物入れを兼ねたシルバーカーに座って眠る生活をしていた。
帰郷以後

1990年代の半ばに、横浜の街から姿を消した。その時期は映画『ヨコハマメリー』では1995年初冬(『朝日新聞』は「関係者の話」として同年12月に故郷の中国地方へ帰ったとしている[5])、書籍『消えた横浜娼婦たち』によると1996年の11月だという。晩年は「故郷の老人ホームで暮らした」とされるが、実際は故郷に居場所を見いだせず、数十キロメートル離れた津山の老人ホームで余生を送った[3]2005年1月17日、死去[8]。84歳没。
メリーさんに関する証言

作家の
角田光代は高校生の頃からメリーさんのうわさ話を耳にしており、目撃談をエッセイに記している[9]

「その女の話は、中学の時も、高校に上がってからもしばし耳にした。毛皮のマリーの話だ。

 横浜駅周辺や、山下公園付近や、元町、中華街、そんな場所を一人の女が歩いている。夏だろうが雨だろうが彼女はかならず真っ白の毛皮のコートを着ていて、顔ばかりでなく、手も足も、毛皮から露出する部分はすべて 真っ白に塗りたくっている。年齢不詳だが、かなり年をとっているのは確かである。それだけの話だ。もちろん、この話は一世を風靡した口裂け女ほどには迫力もなく、物語性も薄く、さほど恐怖心をあおらないから、あまり話題性のある話ではなかった。 ときおり思いだしたようにだれかの口にのぼり、つぎの日には忘れられ、数年たってまただれかが見ただの見ないだのとぽつりともらす、その程度の話だった。

(中略)

 高校を出てずいぶんたってから、私はその女を見た。

 山下公園でお祭りがあり、友達のバンドが出演することになった。それで私は友人数人と車を借りて、山下公園目指して走ったのだった。桜木町を過ぎて、石川町にさしかかったあたりだった。 夏のさなか、町にひとけはなく、走る車の数もさほど多くはなく、まっすぐに続く道路が生きているみたいに銀色に光っていた。赤信号で車はとまり、青にかわって走りだし、その瞬間、横断歩道の真ん中あたりに立っている人影を視線の隅でとらえた。 後部座席に座っていた私は大きくふりかえり、マリーだ! と叫んでいた。

 異様な姿だった。 すりきれ、薄汚れた毛皮のコートを身にまとい、金髪に近いような茶色い長い髪の合聞から、真っ白に塗りたくられた表情の読めない顔が見え隠れしている。 小柄なその女は、強烈な陽射しを照り返す道路の真ん中で、放心したようにぽつんと立っていた。夏という季節からも、繁華街という場所からも、現在という時聞からも、彼女は完全に浮いていた。それでも白塗の女が毛皮をまとってそこに立っていることの、異常さはさほど感じられなかった。 それはたぶん、彼女の持つ圧倒的な雰囲気が、彼女の立っているその一部分の現実感を、まったく消し去っていたからだと思う」

作家・五木寛之は以下のように回想している[10]

○高杉?どの辺りで御覧になりましたか?

*五木?馬車道あたりでも会っていましたし、それ以後もずっと見かけてるんです。

○高杉?あそこは今でもメリーさんのお気に入りの場所のようです。 このニューグランドホテルの旧館ロビーにも五年程前まではよく来ていたそうですが、最近はぱったりと見えないようです。

○足立?この三年くらいもう広範囲な動きはしないようですね。

*五木?西口の高島屋の前でも会ったことがあるな。取りあえずその頃にはもう伝説のようにメリーさんの話は物語として成立してましたから、あ、あれが有名なメリーさんか、っていうふうに思ったりしていた。

◇森 ?それはいつ頃のことでしょうか?

*五木?六〇年代か七〇年代かな、もっと若くって本当に現役っていう感じでね。この写真集では白い服が多いようですけどもっと派手な色の服で。(中略)

    僕が若い頃に町で見掛けた時も、あの人は娼婦なんだよって言われて随分年増の娼婦だなってそのことに奇異な感じはしませんでしたね。そう言われてみればそうかって思う位ですから。今は例えば皆ある種奇異な感じで受け止めるでしょうけども、そうではなくて実際に肉体を持った女性としてまだ現役っていう色香は残ってましたから。

女優の五大路子は、1991年頃に横浜で初めてメリーさんを偶然目撃しており、彼女の見た目について以下のように回想している[11]


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