メリノ種
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メリノ種
生息年代:
新石器時代-現世, .01?0 Ma Pre??OSDCPTJKPgN

分類

ドメイン:真核生物 Eukaryota
:動物界 Animalia
:脊索動物門 Chordata
亜門:脊椎動物亜門 Vertebrata
:哺乳綱 Mammalia
:鯨偶蹄目
:ウシ科
亜科:ヒツジ亜科
:ヒツジ族
: ヒツジ属

学名
'
和名
メリノ種
英名
merino

メリノ種(Merino)は、ウールの生産を目的として品種改良されたヒツジで、毛が繊細なことで他の羊に比べて特に優れており、毛色も白く、体質も強く、群れる性質が強く放牧に適した品種である。メリノ種の原型は、ローマ帝国の人物であるルチウス・コルメラ(Lucius Junius Moderatus Columella)が、1世紀前半にイベリア半島ローマのタレンティーネ種とアジア系・北アフリカ系・半島土着種を交配し開発したものである[1]17世紀にスペイン王室がスペインからの輸出を禁止し独占する戦略を採用し、その優れた品質の羊毛を原料とした毛織物はスペインの重要な輸出品となった。その後、いくつかの経緯でオーストラリアニュージーランドフランスアメリカ合衆国などでも飼育されるようになり(それぞれオーストラリアン・メリノ、ニュージーランド・メリノ、フレンチメリノ、USメリノなどと呼ばれており)その他のいくつもの国でも飼育されるようになっており、メリノウールはその優れた品質と生産量により、ウールの代表とも見なされている。現在、メリノウールの約80%はオーストラリアで生産されている[2]
歴史

メリノ種は、現在世界のいくつもの国で飼育されており、その歴史はいくつにも枝分かれしており、単一線の物語として説明することは困難なので、複数の節でテーマに分けて説明する。ただし、できるだけ古い歴史や重要な歴史から説明する。
メリノ種とメスタ

「メスタ」とはスペイン中世・近世の牧羊業者組合である。

12世紀から、スペインのメディナ・デル・カンポブルゴスセゴビアでは、英国やフランドルの羊毛商が、毎年春ごろから市を開いていた。時期を合わせた移動牧羊がイベリア半島を縦断して行われた。このころのスペインのメリノ・ウールは英国種に価格競争で負けていた。スペインの羊の所有者たちは、牧童の雇用・賃金の設定・迷羊の帰属といった共通の問題を解決するためにメスタ(Mesta)という組合をつくった。カスティーリャ王国の全羊飼いを対象に名誉あるメスタ会議が行われてからは、同国で許される牧羊の行動基準がメスタから出るようになった[3]

13世紀-14世紀からブルターニュノルマンディー等のフランス沿海諸港とスペイン北部のビスケー湾との間に海上貿易が著しく発展し、メスタのおかげで価格競争力をつけたスペインのメリノ・ウールは、市場で頭角をあらわし始めた。

15世紀末までは、スペイン商人がフランス西部のナントや北部のルーアンに定住していたが、それに対してフランス商人がスペインへ出向くことは少ないような状態が続いていた[4]。このバランスはイタリア戦争で劇的に変化し、南部のアンダルシアがフランス・スペイン貿易の要となってユグノー商人・船舶が訪れるようになった[5]。1521年からは両国は交戦関係となり、フランスはスペインとの貿易にフランドルやイギリスの商人を仲介させた[6]。1559年のカトー・カンブレジ条約が仲介を不要にし貿易が栄え[7]、1578年から1581年にかけてセビリアバルセロナカディスにフランス人領事が置かれるまで関係が改善した[8]。このころにオランダが独立した。オランダはスペイン領であった時代から染色を得意とし、メリノ・ウールの白さがもつ真価を証明してきた。欧米両圏を市場として、メリノ・ウールは世界的なブランドになった。

17世紀末にアラゴン王国にまでメスタの基準が適用されるようになった。果樹園・葡萄園・穀物畑・牛の放牧地・刈り取り後の草地への羊群侵入は禁じられていたが、野菜園などは侵入を拒否できなかったので農民から訴訟が相次いだ。メスタは公開地や入会地でも飼育が許された。耕作地帯に82メートルの牧羊道設置が法で定められ、羊群通過中の立ち入りが禁止された。第一次カルリスタ戦争中の1836年まで、批判されながらメスタは影響力を持ち続けた。メスタが残した牧羊道は1920年代まで使用された[3]

メスタは、国庫に資金を供給するため長く保護されたのである。



スペイン王室とメリノ種

スペイン帝国が興るとすぐにスペイン王室はメリノを所有したものの、富裕な貴族と教会に売却した[3]

17世紀にメリノ種はスペイン帝国の完全独占化におかれ、1731年の「王室羊(エスコリアル)に関する法令」がそれまでメリノ独占のために出されてきた夥しい数の勅令を体系化した[3]

これにより、品質の優れたメリノウールをスペインが独占することに成功し、そのメリノウールで織る毛織物はスペインの重要な輸出品となりスペインに富をもたらした。

だがスペイン王室の財政が苦しくなるにつれて公式の "限定輸出" や、密輸も行われるようになってしまった。(王室経由で輸出された記録の一部を挙げるだけでも、1765年ザクセン、1773年オーストラリア、1780年デンマーク、1786年フランス、1789年オランダ、1790年イギリス、を挙げることができる。)

さらに(半島戦争のさなか、1808年に)ナポレオンの侵攻を受けると軍費・食料を調達するために貴族所有のメリノが接収・転売・屠殺され、さらにナポレオン軍も戦利品としてメリノ種を持ち帰り、フランス内外へ転売されてしまった[3]

こうして一旦はスペイン王室によって輸出が禁止され独占に成功しスペインに富をもたらしていたメリノ種は、まるで堰が決潰したかのように、スペインの国外へと流出し広まっていった。スペインから流出したメリノ種が、どの国へどのような経緯で渡り、どのような派生種を生んでいったかについては、この下の複数の節で解説する。
ザクセン王国のメリノ種

ザクセン選帝侯領のメリノ・ウールはイギリスで「選帝侯ウール(エレクトラル・ウール)」と呼ばれ、毛織物業者に売れまくった。

1765年に輸入された220頭のメリノはドレスデンに近いシュトルペンの選帝侯動物園に送られた。スペインから同行してきた羊飼いは翌年半ばまで牧羊を指導した。ザクセン選帝侯はすべての小作人に牧羊を義務づけ、また法令でオスのメリノを使った羊種改良をしないと牧場から追放するという措置まで講じた。1766年、メリノはザクセン農家に強制販売された[9]

ポーランド分割が進むにつれて、開発も加速していった。

メリノは1778年にも8月から翌年5月までかけてスペインから輸入され、ホーエンシュタインの牧羊学校に移されたあと、ローメン(Lohmen)の政府領に送られた。ここでは1783年から1923年までスペインの純血メリノが保有された。ここで繁殖したメリノは管理がゆきとどいており、オーストラリアに送られ、1829年スペインへ帰還した[9][10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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