メリト・アコスタ
Merito Acosta
基本情報
国籍( アメリカ合衆国へ移住)
出身地 キューバ
ハバナ州バウタ
生年月日 (1896-05-19) 1896年5月19日
没年月日 (1963-11-17) 1963年11月17日(67歳没)
身長
体重5' 7" =約170.2 cm
140 lb =約63.5 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション外野手
プロ入り1912年
初出場1913年6月15日
最終出場1918年9月2日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
ワシントン・セネタース (1913 - 1916, 1918)
フィラデルフィア・アスレチックス (1918)
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バルドメロ・ペドロ・アコスタ・フェルナンデス(Baldomero Pedro "Merito" Acosta Fernandez , 1896年5月19日 - 1963年11月17日)は、キューバ共和国ハバナ州(現:アルテミサ州)バウタ出身のプロ野球選手(外野手)。左投げ左打ち。
長い間、同世代のキューバ出身MLB選手であるホセ・アコスタの弟とされていたが、実際には無関係であることが彼の娘によって明らかにされた。 1913年6月15日にワシントン・セネタースの一員として、17歳でMLB初出場。年間では出場機会はさほど多くはなかったが、それでも20打数6安打に2盗塁と上々の数字を記録した。しかし翌1914年、1915年と出場試合数は増えていくものの、結果を残すことが出来なかった。 1916年にわずか5試合出場に終わると、1917年は出場機会に恵まれず、ようやくMLBの舞台に戻ってきた1918年にはシーズン途中でのトレードが待っていた。移籍先のフィラデルフィア・アスレチックスでは49試合に出場して打率.302を記録するなど奮闘するが、この年限りでMLBからは退いた。
経歴
また、冬の時期は1912-1913シーズンから1924-1925シーズンまでキューバ国内リーグ"リーガ・クバーナ・デ・ベイスボル"でプレーした。
1918年12月2日に外野手(中堅手)ながら無補殺の三重殺を達成するという珍記録を演出。無死満塁から全力疾走をしてライナーを好捕、そのまま走って二塁を踏み、飛び出していた二塁走者をアウトに取り、最後は戻ろうとした一塁走者を追い掛け、タッグアウトにした[1]。
1922-1923シーズンにはエレファンテス・デ・マリアナオの監督として、チームを創設初年でキューバリーグ優勝に導いた。
アメリカ合衆国内に初めて設立されたキューバ出身者によるマイナーリーグチーム、ハバナ・キューバンズのオーナーを務めていた。
1963年11月17日にフロリダ州マイアミで死去。67歳没。 打撃面では、通算成績で四球が三振を上回り、生涯の出塁率が打率より約.100上である事から分かるように、選球眼に優れていた。
プレースタイル
詳細情報
年度別打撃成績
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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