メリアム=ウェブスター
親会社Encyclopadia Britannica
メリアム=ウェブスター社(Merriam-Webster, Inc.)は、参考図書を出版するアメリカの企業であり、特にその辞典で知られている。
1828年、ジョージ・メリアム(英語版)とチャールズ・メリアムはマサチューセッツ州スプリングフィールドでG & C Merriam Co.として会社を設立した。1843年、ノア・ウェブスターの死後、会社はウェブスターの遺産から『アメリカ英語辞典』の権利を購入した。全てのメリアム=ウェブスターの辞典はこの系統に連なる。
1964年、エンサイクロペディア・ブリタニカ社がメリアム=ウェブスター社を買収し、子会社とした。会社は1982年に現在の名称となった[1][2]。 1806年、ウェブスターは自身初の辞書、『A Compendious Dictionary of the English Language』を出版した。1807年、ウェブスターは彼の出版物を完全に総合的な辞典『アメリカ英語辞典』へと拡張する20年にわたる集中した作業を開始した。単語の語源を辿る助けとして、ウェブスターは26の言語を学んだ。ウェブスターは、国の様々な場所のアメリカ人がかなり異なる語彙を用い、単語を異なるやり方で綴り、発音し、使用していたため、こういったアメリカ人の話し言葉を標準化したいと考えていた。 ウェブスターは1825年にパリやケンブリッジ大学へ滞在中に辞典を完成させた。ウェブスターの1820年代の本は7万語を収録し、そのうちおよそ1万2千語はそれ以前の辞典には見られないものだった。綴り字改革者
起源
ノア・ウェブスター
出版社としてのメリアム詳細は「ウェブスター辞典」を参照
1843年、ウェブスターの死後、ジョージとチャールズ・メリアムはこの辞典の1840年版の出版および改訂権を確保した。彼らは1847年に改訂版を出版した。これは本文には変更点は全くなく、単に新しい節が追加されただけだった。1859年の改訂版では図版が追加された。1864年、メリアムは大増補版を出版した。これはウェブスターの文章を変更した最初の版であり、多くの定義と『An American Dictionary...』というタイトルを保持したまま、ウェブスターの著作を徹底的に整備した。これが大辞典と形容される一連の改訂の始まりであった。1884年には収録単語数は11万8千であり、「その他いかなる英語辞書よりも3千語多かった[3]」。
1890年版で、タイトルが『ウェブスター国際辞典(Webster's International)』に変更された。語彙は1909年と1934年の『ウェブスター新国際辞典(Webster's New International)』版で多いに拡張され、収録単語数は50万を超えた。1934年版は遡及的に『ウェブスター国際辞典第2版(Webster's Second International)』あるいは単に新国際辞典(New International)の『第2版』と呼ばれた。『メリアム=ウェブスター大学辞典』、第11版。
『カレッジ辞典』(Collegiate Dictionary)は1898年に発表され、このシリーズは現在第11版である。1890年の『Webster's International』の出版後、2つの『カレッジ』版が増補版として発行された。メリアムはフィリップ・バブコック・ゴーヴ(英語版)の指導の下で1961年の『ウェブスター英英大辞典 第3版(英語版)』を出版し、辞典を再び徹底的に整備した。この版で行われた変更は世間での論争に火を着けた。これらの変更点の多くは書式、不必要な句読点(英語版)の除外、あるいは短い語句で十分な時に完全な例文を回避することであった。その他のより議論の的となる変更点は言語学的規範主義(英語版)から当時使用されていたままのアメリカ英語を描写する方向への移行の前兆を示した[4]。
第9版(『Webster's Ninth New Collegiate Dictionary』〈WNNCD〉、1983年発行)で、『カレッジ辞典』はただ単に『新国際辞典第3版』(本文は1961年以降実質的に改訂されていない)の増補ではなく別個の存在として自身を区別する変更を採用した。一部の固有名(円卓の騎士の名前など)は単語表に戻された。最も特筆すべき変更は、それぞれの単語の英語への流入を記録するためにそれらの既知の初出の日付を含めたことである。第11版(2003年発行)は22万5千以上の定義と16万5千以上の項目を含む。