メトロポリタン鉄道
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、1933年にメトロポリタン線となった路線の歴史について説明しています。ディストリクト線の歴史については「ディストリクト鉄道」をご覧ください。
1862年12月、開業の前月のイラストレイテド・ロンドン・ニュースから、メトロポリタン鉄道の各駅のモンタージュ

メトロポリタン鉄道(メトロポリタンてつどう、英語: Metropolitan Railway、単にMetとも)は、ロンドンで1863年から1933年まで運行されていた旅客貨物鉄道である。その北へ伸びる本線は、経済的な中心地であるシティ・オブ・ロンドンから後にミドルセックス州の郊外となる地域を結んでいた。最初の路線は本線鉄道のターミナル駅である、パディントン駅ユーストン駅キングス・クロス駅をシティと結ぶものであった。鉄道は、ニューロード(英語版)の下をパディントンからキングス・クロスまで開削工法で、そしてファリンドンロード(英語版)の脇をキングス・クロスからシティに近いスミスフィールドまでトンネル切通しで建設された。この路線が1863年1月10日に開通した際には、蒸気機関車がガス灯を灯した木造客車を牽いており、世界最初の地下鉄であった[1]

この鉄道はその後すぐに両端から、そしてベイカー・ストリート駅から分岐して北へ延長された。ハマースミス駅まで1864年に、リッチモンド駅(英語版)まで1877年に、そしてサークル線が1884年に完成したが、もっとも重要な路線は北のミドルセックス州の郊外へ通じる路線で、新しく郊外の開発を促すことになった。ハーロー・オン・ザ・ヒル駅(英語版)へは1880年に到達し、さらに路線は最終的にバッキンガムシャーのバーニー・ジャンクション駅(英語版)まで到達したが、ここはロンドンの中心のベイカー・ストリート駅からは50マイル(80 km)以上離れた場所であった。

1905年に電化が始まり、1907年にはほとんどの運行に電車が用いられるようになったが、路線網の外側では電化は数十年あとまでかかった。ロンドン地区における他の鉄道会社と異なり、メトロポリタン鉄道は住宅開発を行い、第一次世界大戦後沿線の住宅をメトロランドのブランドで販売した。1933年7月1日にメトロポリタン鉄道はロンドン地下電気鉄道の地下鉄網、ロンドンの路面電車バスなどと合併してロンドン旅客運輸公社となった。

こんにち、かつてのメトロポリタン鉄道の線路は、ロンドン地下鉄メトロポリタン線サークル線ディストリクト線ハマースミス&シティー線ピカデリー線ジュビリー線およびチルターン・レイルウェイズが使用している。

メトロポリタン鉄道の略称である「Metro」は、「Tube」「Underground」を使うロンドン、「Subway」を使うアメリカ以外の多くの国の言葉で、「地下鉄」の意味として定着している[2]
歴史
パディントンからシティへ、1853年 - 1863年
設立ロンドン地下鉄の提唱者、チャールズ・ピアソン

19世紀前半には、ロンドンの人口と都市の広さは非常に拡大していた[note 1]。住民が増加し、そして毎日列車で通勤する人も増えたことから、道路上は大変な数の荷車や馬車で埋め尽くされ膨大な交通量となり、ロンドンの経済的な中心であるシティ・オブ・ロンドンに毎日徒歩で入る人も20万人に達していた[4]。1850年までには、ロンドン都心の周辺部に7つの鉄道のターミナル駅が存在していた。南側にはロンドン・ブリッジ駅ウォータールー駅、東側にはビショップスゲート駅(英語版)、フェンチャーチ・ストリート駅、北側にはユーストン駅キングス・クロス駅、西側にはパディントン駅である。フェンチャーチ・ストリート駅のみがシティ・オブ・ロンドンの範囲内にあった[5]

道路が混雑しており、またシティから北や西の駅までの距離があったことから、シティへ通じる新しい鉄道路線を建設する議会承認を得ようとする多くの試みがなされた。しかしどれも承認を得られず、1846年には首都の鉄道ターミナルの調査を行った王立委員会が、既に建設の進んだ都心部における新たな路線や駅の建設を禁じた[6][7][note 2]。シティ・オブ・ロンドンと鉄道のターミナル駅を結ぶ地下鉄道という考え方は、1830年代に最初に提案されていた。シティ・オブ・ロンドンで事務弁護士をしていたチャールズ・ピアソンは、いくつかの提案における主導者となっており、1846年には複数の鉄道会社が共同利用する中央駅を提案した[8]。この提案は1846年に王立委員会により却下されたが、1852年にピアソンは、ファリンドンからキングス・クロスまでを結ぶそうした鉄道を建設するためのシティ・ターミナス会社 (City Terminus Company) の設立を支援することで、これを再提案した。この計画はシティ・オブ・ロンドンには支持されたが、他の鉄道会社は関心が無く、会社は計画を進めるのに苦労することになった[9]

ベイズウォーター・パディントン・アンド・ホルボーン・ブリッジ鉄道 (Bayswater, Paddington and Holborn Bridge Railway Company) は、グレート・ウェスタン鉄道のパディントン駅からピアソンの提唱路線にあるキングス・クロス駅までを結ぶために設立された[9][note 3]。法案は1852年11月に提出され[10]、1853年1月に初めての取締役会が開かれてジョン・ファウラーを技術者に指名した[11]。政界への工作が成功し、会社は1853年夏にノース・メトロポリタン鉄道 (North Metropolitan Railway) という名で議会承認を受けた。一方シティ・ターミナス会社が提出した法案は議会で否決されてしまい、これはノース・メトロポリタン鉄道がシティへ到達することができなくなることを意味した。この問題を解決するために、ノース・メトロポリタン鉄道はシティ・ターミナス会社を合併の上で、1853年11月に法案を再提出した。この法案では都心の中央駅の計画を削り、また路線をファリンドンより南へセント・マーティンズ・ル・グランド(英語版)にある郵政省本部(英語版)前まで延長した。また路線の西側の端も、グレート・ウェスタン鉄道の駅により直接的に接続できるように修正された。またロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道(英語版)とユーストン駅で、グレート・ノーザン鉄道とキングス・クロス駅で接続する許可も求めていた。キングス・クロスでの接続はホイストとリフトによることになっていた[12]。会社の名前は再変更され、今回はメトロポリタン鉄道となった[9][13]。ノース・メトロポリタン鉄道法は、1854年8月7日に国王裁可を受けた[12][14]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:343 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef