この項目では、紀元前397年のシケリア戦争の戦いについて説明しています。紀元前265年の第一次ポエニ戦争の同じ都市での戦いについては「メッセネの戦い (第一次ポエニ戦争)」をご覧ください。
メッセネの戦い
戦争:第二次シケリア戦争
年月日:紀元前397年
場所:メッセネ(現在のメッシーナ)
結果:カルタゴの勝利
交戦勢力
メッセネカルタゴ
指導者・指揮官
不明ヒミルコ、マゴ
戦力
不明陸軍50,000、海軍600隻
損害
不明不明
シケリア戦争
第一次ヒメラ
セリヌス
第二次ヒメラ
アクラガス
ゲラ
カマリナ
モティア
セゲスタ
メッセネ
メッセネの戦いは、紀元前397年にシケリア(シチリア)のメッセネ(現在のメッシーナ)で発生した戦い。シュラクサイの僭主ディオニュシオス1世によるモティア(現在のマルサーラのサン・パンタレオ島)攻撃(モティア包囲戦)への報復として、カルタゴはヒミルコが率いる陸海軍を派遣し、奪われた領土を奪回した。ヒミルコはパノルムス(現在のパレルモ)に上陸すると、シケリア北岸に沿って進軍し、メッセネ北方12マイルのペロルム岬(カポ・ペローロ)に達した。メッセネ軍は街を出てカルタゴ軍に向かったが、ヒミルコは陸兵を満載した船200隻でメッセネを直接攻撃した。この急襲に市民は街を捨てて郊外に脱出した。ヒミルコはメッセネを略奪・破壊したが、メッセネ自体は戦後に再建された。 紀元前480年の第一次ヒメラの戦いでの敗北後、カルタゴは70年間シケリアに介入しなかった[1]。シケリアに対するカルタゴの不介入政策は、紀元前411年にエリミ人とイオニア人の都市であるセゲスタ(現在のカラタフィーミ=セジェスタ)がドーリア人都市であるセリヌス(現在のマリネラ・ディ・セリヌンテ)に敗北し、カルタゴの従属国家となることを求めて来たことによって変化した。カルタゴは紀元前409年にセリヌスを攻略・破壊し(セリヌス包囲戦)、さらにはヒメラ(現在のテルミニ・イメレーゼの東12キロメートル)も破壊した(第二次ヒメラの戦い)[2]。その後カルタゴ軍は撤退したが、シュラクサイのヘルモクラテスが、カルタゴ領であるモティア(現在のマルサーラのサン・パンタレオ島)やパノルムス(現在のパレルモ)近郊で襲撃を行うと、紀元前406年にカルタゴはハンニバル・マゴが率いる軍を再びシケリアに派遣した[3]。同年にアクラガス(現在のアグリジェント)、ゲラ(ジェーラ)、翌年にはカマリナ(現在のラグーザ県ヴィットーリアのスコグリッティ地区)が占領された[4]。紀元前405年、ディオニュシオスはヒミルコ(ハンニバル・マゴが病死のため司令官を引き継いでいた)との間にカルタゴが有利な平和条約を結んだ[5] 。この条約により、カルタゴは直接的・間接的にシケリアの60%の支配権を得たが、ディオニュシオスはシュラクサイの支配権を認められた。紀元前405年から紀元前398年にかけて、ディオニュシオスはシュラクサイにおける自身の権力を確立し、陸海軍を拡張し、支配下の領域を拡大していった。また、新兵器である大型弩弓と、五段櫂船[6]も開発した。
背景
ディオニュシオス、カルタゴ領を攻撃