メッカ
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この項目では、サウジアラビアの地名について説明しています。その他のメッカについては「メッカ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

「マッカ」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「マッカ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

マッカ・アル=ムカッラマ
??? ???????


マスジド・ハラームとメッカ中心部
位置

位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯21度25分 東経39度49分 / 北緯21.417度 東経39.817度 / 21.417; 39.817
行政
サウジアラビア
 マッカ州
 市マッカ・アル=ムカッラマ
市長Saleh Al-Turki
地理
面積 
  市域26 km2
  市街地850[1] km2
  都市圏1,200 km2
標高277 m
人口
人口(2015年現在)
  市域1,578,722人
  市街地2,053,912人
  都市圏2,500,000人
その他
等時帯UTC+3 (UTC+3)
夏時間なし
市外局番+966-2
公式ウェブサイト : https://hmm.gov.sa/portal/

メッカ(アラビア語: ???‎ Makkah [?makka])は、サウジアラビアマッカ州(歴史的にいえばヒジャーズ地域)の州都である。正式名はマッカ・アル=ムカッラマ(??? ??????? Makkah al-Mukarramah 「栄光あるマッカ」)。別名、ウンム・アル=クラー(?? ????? Umm al-Qur? 「町々の母」)。サウジアラビア政府は、1980年代に同市の名前の公式な英語表記を、西洋人が以前から一般に用いてきた綴りであるMecca [?m?k?] からMakkah [?mak?] に改めた[2]

人口は1,578,722人(2015年国勢調査)。ジェッダから73 km内陸に入った、狭い砂地のアブラハムの谷にあり、海抜277 mである。紅海からは80 km離れている[3]

メッカは、イスラム教最大の聖地であり、祈りを捧げるところである。ムスリム(イスラム教徒)は一日に5回決まった時刻になると、メッカの方向に向かって礼拝を行う。あらゆるムスリムにとって、同地への巡礼ハッジ」は体力と財力が許す限り一生に一度は果たすべき義務である。これは聖典クルアーン(Q 3:97)の記述を根拠とするもので、イスラム暦の第12月にあたるズー・アル=ヒッジャ月の8日から10日に行われる巡礼である「ハッジ」のことを指し、この期間には世界中からハッジの行事に参加するため巡礼者が集まる。その期間以外で随時個々に行われている巡礼「ウムラ」も多くのムスリムが財力や体力の許す限り行っているため、メッカとカアバの周辺には一年を通じて絶えず巡礼者が訪れている。ムスリムはマスジド・ハラーム(聖なるモスク。カアバを保護する)を地上でもっとも神聖な場所と考えている。マディーナと並んでイスラム教二大聖域(メッカ、マディーナを併称する場合、「2つの聖なる禁域」という意味で、アラビア語で「ハラマイン」とも呼ばれる)とされている。マディーナは2022年からムスリム以外も入れるようになったが、メッカは2023年現在でもムスリム以外の入場はできず、通じる道路の手前にある検問所より先に行くことができない。古くからムスリムに変装しメッカを訪れる異教徒がおり、中には処刑された者もいる。
地理ヒラー山から眺めたメッカ中心部

メッカの中心部は山々にはさまれた狭い回廊に位置しており、しばしば英語で「Hollow of Mecca」と呼ばれる。市の面積にはAl Taneem谷、Bakkah谷、およびAbqar谷の面積が含まれる[4][5]。近年の人口増加により、住宅地は近隣の山岳地帯にも広がっている。街のもっとも低いところにメッカでももっとも神聖なマスジド・ハラームがあり、ここが街の中心となっている。この付近には禁域(ハラーム)と通称される旧市街が広がっている。目抜き通りであるAl-Mudda'ah通りとスークはモスクの北に広がり、As-S?g Assagh?r通りは南へと延びる。サウジアラビア統治下になってから中央の大モスクは大幅に拡張され、その付近にあった数百件の家々は現在広い大通りや広場となっている。メッカの伝統的な家は地元の石で作られ、一般的に2階から3階建てである。メッカの今日の総面積は1,200 km2以上となっている[6]

近年の世界の一体化にともなう交通事情の改善などによって巡礼客は増加の一途をたどっており、それを一手に引き受けるメッカも急速な成長が続いている。マスジド・ハラームの向かいには、サウジアラビア屈指の高層ビル群であるアブラージュ・アル・ベイト・タワーズが建設され、2012年に開業した[7]。そのうちのホテル棟はサウジアラビアでもっとも高い601 mで、ブルジュ・ハリーファに次いで世界で2番目に高いビルである。しかし、この場所にはかつてはオスマン帝国時代に立てられ歴史的な価値の高いアジャド要塞が建っており、トルコやサウジ国内などから強い反対の声が上がっていたが、ビル建設にともない取り壊されてしまった[8][9]。この事例に象徴されるように、サウジアラビア政府は偶像崇拝につながりかねないとして古い遺跡や建物、ことに歴史的・宗教的な建物に敵対的な態度を示すことが多く、結果としてサウジ支配下に入ってから古い建物のほとんどは取り壊された。1985年以来、メッカの歴史的建造物の95%以上、1000年以上の歴史を持つもののほとんどが破壊されたと推定される[10][11]

メッカ中心部の北東約5 kmには、ムハンマドに対して神による最初の啓示が下されたヒラー山がある。ヒラー山には多くの巡礼者が訪れるが、スンナ派のなかでも厳格なワッハーブ派の流れを汲むサウジアラビア政府は偶像崇拝につながりかねないとして、「この山は本来は神聖視されるべきものではない」という断りを登山口に設けている。ハッジの巡礼ルート図。マスジド・ハラームに巡礼者は必ず向かうが、巡礼においてはミナーの谷やアラファト山も重要である

メッカの東25 kmにはムハンマドが最後の説教を行ったアラファト山がある。ここは巡礼の際、巡礼月9日に必ず訪れねばならない場所であり、途中のミナーの谷のテントで一泊したあと、アラファト山で巡礼者は立礼(ウクーフ)を行う。帰路も再びミナーの谷で一泊するため、ミナーの谷には2 km四方にわたってサウジアラビア政府が冷房つきの作りつけのテント村を整備しており、谷はテントによって埋め尽くされている。この膨大なテント群は大巡礼の5日間しか使用されない[12]。ミナーからアラファト山への道には8本の道路と2本の歩行者専用道路があるが、巡礼の日は大混雑となる。この混雑を緩和するため、2010年11月には新交通システムのメッカ巡礼鉄道がこの巡礼路に完成した(後述)。この道路には熱射病対策用のスプリンクラー街路樹トイレや照明などが完備されているが、これらも大巡礼の日以外は使用されない。

近代以前のメッカにおいては、水は3つの方法によって供給されていた。1つ目はザムザムの泉に代表される井戸であり、2つ目はアイン・ズバイダのだった。3つ目は少ない雨水貯水池にためて確保するやり方であった。水不足に苦しむ一方で、メッカは谷底にあり、周囲に水を蓄える植生もないため、わずかな降雨でも洪水の危険性にさらされていた。記録に残るだけで、サウジ時代を含めて1965年までに89回の洪水があったとされる。特に1942年の洪水がもっとも被害が大きかった。それ以来、メッカの周囲には洪水防止用のダムが建設されている[4]
気候

アラビア半島の西部、紅海に面したヒジャーズ地方の中心都市である。砂漠気候で、一年を通じてほとんど雨は降らない。


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