メジロ牧場
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メジロ牧場の勝負服

有限会社メジロ牧場(メジロぼくじょう)は、かつて北海道虻田郡洞爺湖町にあった競走馬の生産牧場である。日本屈指のオーナーブリーダーであり、史上初の牝馬三冠馬メジロラモーヌGI競走5勝を挙げたメジロドーベルなど数々の名馬を生産した。勝負服の柄は「白、緑一本輪、袖緑縦縞」。



概要

1967年、建設会社・北野組社長で馬主の北野豊吉が、北海道伊達市高橋農場から敷地の一部を割譲され、伊達市にメジロ牧場を開場。牧場名は北野の自宅所在地である東京都豊島区の地名「目白」に由来する。開業当初から数々の重賞優勝馬を輩出し、1982年メジロティターン天皇賞(秋)に優勝し、八大競走初優勝。以降もメジロライアンメジロドーベルなどの名馬を生産している。しかし2000年代に入ると次第に成績は低迷。2006年を最後に重賞勝利から遠ざかり、成績不振により競走馬の賞金を基にした経営が成り立たなくなったことから、2011年5月20日付で牧場を解散、同時に馬主業からも撤退した[1]1971年洞爺湖町に分場を開設。2003年より本場がこちらに移され、伊達市の旧本場は育成・休養に使用されていた。
生産馬の特徴

天皇賞制覇に強い拘りを持っていた北野豊吉の方針から長距離馬を指向した生産が行われ、「長距離のメジロ」として知られていた。障害競走でも非常に顕著な実績を残しており、メジロアンタレスメジロマスキットという2頭の最優秀障害馬を筆頭に、中山大障害中山グランドジャンプで7勝を挙げている。しかし晩年は長距離競走の価値低下とそれに伴う競走番組の変遷により、必ずしも長距離馬ばかりを志向しているわけではなかった[2]

生産に当たっては内国産種牡馬、自家生産種牡馬を重用することで知られ、北野の所有馬であったメジロアサマから、メジロティターンメジロマックイーン[注 1]と続いた「父子三代天皇賞制覇」は日本競馬史上の偉業とされている。しかし流行の種牡馬を配合しないという事はなく、いわゆる「社台系」の血統も積極的に導入してきた[3]。しかしこれらは自家製血統の生産馬に比べ長らく活躍することがなかった。社台系種牡馬のシンジケートには1980年代ニチドウアラシから加入している[3]が、こうした血統で重賞競走に優勝する生産馬は、2000年朝日杯3歳ステークスを優勝したサンデーサイレンス産駒・メジロベイリーまで現れなかった。

一方で、JRA顕彰馬(殿堂入りに相当する)にも選出されたメジロラモーヌメジロマックイーン1992年の春秋グランプリ(宝塚記念有馬記念)制覇のメジロパーマー、牝馬限定ながらGI5勝を挙げたメジロドーベル等、数多くのGI勝ち馬がいる中で、生産・所有馬がJRA年度代表馬に選出されたことが一度もなく、また競馬関係者にとっての勲章とされる東京優駿(日本ダービー)を制した馬も出なかった[注 2]
有珠山噴火による被害

メジロ牧場洞爺本場は、日本有数の活火山有珠山の西側山麓に位置しており、創設以来2度の噴火被害に遭っている。2000年に噴火した際は、メジロドーベルなどの繋養馬を他の牧場に避難させるに留まったが、1977年の噴火では牧場全域に降り注いだ火山灰が数十cmまで積もり大きな打撃を受けた。それでも本場を洞爺に留める理由として、牧場に費やした巨額の設備投資を捨てての移転は困難であるという点[4]、積極的なものとしては、火山灰地であるがゆえに牧草に豊富なミネラルが含まれているという点[4]が挙げられる。
撤退へ

2011年4月26日、メジロ牧場は昨今の生産馬、所有馬などの成績不振や、上記の有珠山噴火による影響などから競馬界からの撤退と同年5月20日付での解散を決定[5]。メジロ牧場名義で所有していた競走馬は所有者が専務取締役の岩崎伸道に移転され、繁殖牧場などの資産は岩崎が代表を務めるレイクヴィラファームに売却された[6]。なお、撤退に先だって、戸川牧場など関係者の牧場へ移転した馬もいる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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