(国旗)(国章)
メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州(黄色)、桃色はメクレンブルク=シュヴェリーン自由州
公用語ドイツ語
首都ノイシュトレーリッツ
州務長官
国家代理官
メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州(ドイツ語: Freistaat Mecklenburg-Strelitz)は、1918年から1934年にかけて存在したドイツ国(ヴァイマル共和政)およびナチス・ドイツの自由州である。領域は現在のメクレンブルク=フォアポンメルン州の一部に相当する。目次 メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州の前身であるメクレンブルク=シュトレーリッツ大公国では、1918年2月に大公アドルフ・フリードリヒ6世が自殺を遂げ、同族のメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ4世が摂政として管理していたものの、1918年11月に勃発したドイツ革命によって退位を余儀なくされ、メクレンブルク地域における君主制が廃止された。 メクレンブルク=シュトレーリッツとメクレンブルク=シュヴェリーンを合わせたメクレンブルク地方は元々、統一された地域だったため、君主制の廃止を契機とした統一の議論も起こったものの、結局は統一されることなく、ヴァイマル共和政に基づく議会制民主主義国家に移行して独自の州憲法を制定し、独自の州議会を有した。一方で、上級裁判所についてはロストックにあったメクレンブルク上級控訴裁判所を共有した。 メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州はドイツ国でも特に小さい州のひとつであり、君主制廃止からわずか数年で財政的に維持できないことが明らかになった。1926年には君主制廃止の際にシュトレーリッツ大公家から接収した財産の残高が底をついたことから、ライプツィヒのライヒ裁判所にメクレンブルク=シュヴェリーン自由州との合併を訴え出たが、うまくいかなかった。また、1926年にはメクレンブルク=シュトレーリッツ自由州がメクレンブルク=シュヴェリーン自由州を相手取ってドイツ・ライヒ国事裁判所
1 歴史
2 政治
2.1 州議会
2.2 メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州首相
3 脚注
歴史
1932年にはプロイセン自由州に吸収される計画が持ち上がったが、ナチ党が1934年1月1日[2]にメクレンブルク=シュトレーリッツ自由州とメクレンブルク=シュヴェリーン自由州を合併させてメクレンブルク州としたことから頓挫した。