メキシコ憲法
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メキシコ合衆国政治憲法
Constitucion Politica de los Estados Unidos Mexicanos
1917年憲法原文の表紙
施行区域メキシコ
成立1917年2月5日
公布1917年4月15日
施行1917年5月1日
政体連邦制共和制大統領制
権力分立3
立法二院制(代議院と元老院)
行政大統領
旧憲法1857年メキシコ憲法
作成1917年の制憲議会
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メキシコ憲法(メキシコけんぽう)は、正式名称をメキシコ合衆国政治憲法(スペイン語: Constitucion Politica de los Estados Unidos Mexicanos)といい、メキシコの現行の憲法である。メキシコ革命中に憲法委員会によってケレタロ州ケレタロで起草され、1917年2月5日に制憲議会によって批准された。それまでの1857年メキシコ憲法の後継の憲法である。

制定年から1917年憲法、制定された場所からケレタロ憲法[1]とも呼ばれる。
概要

1917年に制定された現行のメキシコ憲法は世界ではじめて社会権を規定した点で、1919年のヴァイマル憲法や1918年のロシア社会主義連邦ソビエト共和国憲法 (Soviet Russia Constitution of 1918) の模範になった[2][3][4][5][6]

特に重要な条文に3条(教育を受ける自由)・27条(政府による私有財産の徴用)・123条(労働者の権利)があり、20世紀メキシコの政治哲学の政治的・社会的背景の枠組みを形成するのを助けた[7]。メキシコにおけるカトリック教会を制限することを目的として、3条では自由で世俗的な義務教育の基礎を樹立した[8][9]。27条は土地改革の基礎を築いた[9]。123条は19世紀後半に出現した労働力を強化し、メキシコ革命で勝利した派閥を支援するものだった[9]

3・5・24・27・130条はメキシコにおけるローマ・カトリック教会を強く制限した[10]プルタルコ・エリアス・カリェス大統領はこれらの条文を厳格に適用しようと試みてクリステロ戦争を引きおこした[10]

改正前の27条は土地の徴用と再分配を可能とし、これによって共有地であるエヒードの土地を売却する権利を制限し、また1938年にはこの条文を根拠にして外国の石油会社の資産を国有化した。また27条は教会が不動産を持つことを禁止していた。

1992年、カルロス・サリナス・デ・ゴルタリ大統領のもとで憲法に大幅な修正が加えられた。27条を修正して個人の財産権を強化し、エヒードの私有化を許可し、土地の再分配を許した。また、メキシコのローマ・カトリック教会に対する制限は大部分が撤廃された[11][12][13][14][15]

憲法記念日はメキシコの祝日であり、1917年2月5日の憲法批准を祝う。公式の日付は2月5日だが、実際には2月の第1月曜日が祝日になる[16]
成立の経緯1917年2月5日、制憲議会が新憲法への忠誠を誓う

1917年憲法は1910年にはじまるメキシコ革命の成果のひとつである。革命ではベヌスティアーノ・カランサの率いる憲法派(constitucionalistas)が勝利した。カランサは1857年憲法を改訂するための議会を招集したが、審議過程で単なる改訂ではない全面的で新たな文書へと変わった[17]。カランサはビリャ派サパタ派を議会から排除したが、これら両派の要求と脅しによって、本来のカランサの計画になかった27条と123条が盛りこまれた[7]

1857年憲法にもあったメキシコのカトリック教会に対する抑圧は新憲法では拡大された。新憲法の新しい点としては経済ナショナリズム、政治ナショナリズム、労働者の権利の領域に関する国家の力を拡大した点がある。新憲法は1916年11月から1917年2月までの短期間に書かれた[18]

1906年にメキシコ自由党(英語版)(PLM)によって提起された多くの改革が1917年憲法に取りこまれている。123条の八時間労働制最低賃金ほかはPLMの要求を入れたものである[19]。27条はメキシコの土地改革に関するPLMの要求を反映しており、土地をその所有者が休閑地にしている場合に政府が徴用し、決められた量の土地を貸し与えることができる[20]。教育改革に関するPLMの要求である教育の世俗化、14歳までの義務教育職業学校の設立なども反映されている[21]。PLMはまたカトリック教会に制限を課すことも求めており、宗教機関を業務として課税すること、宗教機関の不動産の国有化、宗教団体によって運営される学校の排斥などが憲法に反映している[22]

憲法はケレタロの制憲議会によって起草された。カランサがこの地を選んだのは、1867年にマクシミリアンが銃殺されてフランスによるスペイン介入を終わらせた場所であるという由緒がある[23]。憲法派に反対する人々は議会への参加が認められなかったが、議員は普通選挙によって選ばれた[24]。敵対していた人々や亡命から帰国した人々について恩赦を施すようにとの要求をカランサは拒絶した[24]

議会は1916年11月に正式に開会し、1917年2月5日に最終案が承認された。220人の議員はすべてカランサ派だったが、彼らが一枚岩というわけではなかった[25]。大部分の議員は中産階級の出身で、その職業は法律家、教師、技術者、医師、報道家などであり、農民や労働者ではなかった[25][26]。パンチョ・ビリャの出身地であるチワワ州の代議員はひとりしかいなかった[27]

もっとも議論が揺れたのは教育とカトリック教会の扱いであり、それより「革命的」な内容を持つ27条(資源の徴用と再配布)や123条(労働者の権利)は簡単に通過した[28]
改正

1917年憲法は現在も使われているが、制定以来多くの改正が加えられている。2019年までに240回改正されており、OECD加盟国ではもっとも改正回数が多い[29]。とくに1992年に重要な改正が行われた[30]

1926年の改正によって、大統領は任期が連続していなければ何度でも再選できるように改められた。これによって元大統領のアルバロ・オブレゴンは1928年に大統領に再選された(が、就任前に暗殺された)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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