メキシコ・ドル
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スペインドル、1768年 メキシコドル、1894年

メキシコドルはメキシコを中心にラテンアメリカ各国で鋳造された、8レアル銀貨である。貿易決済に用いられスペインなどヨーロッパ諸国、中国など東アジア諸国にも大量に流入し流通した貿易銀であった。

額面は8レアルであるが、アメリカにおいて1ドル銀貨として通用したことから日本では「メキシコドル」と呼ばれるようになった。英語では "Pieces of eight" と呼ばれたが、これはこの銀貨を8分割して、1レアルとして使う習慣があったためである(実際に銀を含むので、破片でも価値があった)。戦前の清国および日本ではメキシコを墨西哥と表記するため墨銀とも呼ばれ、外国から流入した洋銀の主流的位置を占めた。
目次

1 概要

2 略史

3 貿易銀としての流通

3.1 ヨーロッパ

3.2 アメリカ

3.3 中国

3.4 日本


4 参考文献

概要

スペインの植民地時代発行のものはピラードル(スペインドル)と呼ばれる、ヘラクレスの柱を描いた大型銀貨であったが、1821年メキシコの独立後は鷹洋(狭義のメキシコドル)と呼ばれるをデザインしたものとなった。ピラードルの鋳造は1535年に始まりメキシコの独立前後まで発行され続け、独立後は1824年から1897年までは8レアル銀貨、1898年から1905年までは1ペソ銀貨として発行された。この間に量目、品位共に殆ど変化が見られず、最初に発行されたもの(27.468グラム、品位93.05%)より数%の銀含有量の低下が見られたのみで、1824年以降に発行されたものは規定量目27.073グラム、規定品位90.28%と一定していた[1]。直径は約38ミリメートル。総鋳造量は1903年までに約35.5億ドルに達した[2]

鋳造所はアラモス(ミントマークA, As)、レアル・デ・カトルセ(Ce)(Ca)、クリアカン(C, Cn)、ドゥランゴ(Do)、メヒコ州(EoMo)、グアダラハラ(Ga)、Guadalupe y Calvo(GC)、グアナフアト(Go)、エルモシージョ(Ho)、メキシコシティ(Mo)、オアハカ(O, Oa)、サン・ルイス・ポトシ(Pl)、サカテカス(Zs)と多岐に亘る。同様にスペインの植民地であったボリビアチリペルーニカラグアでも鋳造された。
略史

新大陸の大半を植民地としたスペインは金銀を求めて探索を開始した。そこで1545年ポトシ銀山1546年サカテカス銀山と相次いで大規模な銀鉱床が発見される。特にポトシ銀山は混汞法の導入により16世紀後半から産出が増大し、1581年から1600年の間は平均して年間254トンを産出するに至り、これは東洋を除く世界の産銀(1581年から1600年の平均年間産出量418.9トン)の大半を占めるものであった。これに先立ち日本では1533年にもたらされた灰吹法の導入により石見銀山を初めとする銀山の産出が増大し、最盛期は日本も銀産出が年間200トンを超えたものと推定され、世界的な銀産出の増大を見た時代であった[3]

スペインはカルロス1世の命により、本国の貨幣制度に基づいて1535年からメキシコにおいて8レアル銀貨の鋳造を開始した。この豊富な銀の産出を元手に大量の鋳造が可能であったメキシコドルは国際通貨としての地位を獲得するに至る[2]

一方で急激な銀産出の増大は国際的な銀価格の下落をもたらし、メキシコドルがスペインを経由してヨーロッパへ大量に流入すると価格革命を引き起こすに至った。不安定な銀相場の動向により1816年にイギリスが金本位制に移行したのをきっかけに、各国で銀本位制から離脱し金本位制を採用する動きが現れる。これにより銀価格の下落に拍車をかけ、余剰となった銀需要の開拓を中国など東アジア諸国に求める動きが強まった。スペインドルは16世紀頃から中国へ流入し、19世紀には東アジア各国への流入が加速し、洋銀とも呼ばれた[4]

アメリカ、イギリスフランスおよび日本などが貿易銀を発行して東洋貿易の主導権争奪戦が始まるが、東アジアにおけるメキシコドルの地位は依然揺るがないものであった。
貿易銀としての流通
ヨーロッパ

15世紀後半頃より胡椒を求めて対価としてヨーロッパより銀貨が中国へ流入するようになった。


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