メキシコシティ歴史地区
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メキシコシティ歴史地区
Centro Historico de la Ciudad de Mexico
ソカロ(歴史地区中央の広場)

座標:.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯19度25分58秒 西経99度07分59秒 / 北緯19.43278度 西経99.13306度 / 19.43278; -99.13306座標: 北緯19度25分58秒 西経99度07分59秒 / 北緯19.43278度 西経99.13306度 / 19.43278; -99.13306
メキシコ
都市メキシコシティ
管轄区域クアウテモク
人口(2010)
 ? 合計61,229[1]
等時帯UTC?6 (中部標準時)
 ? 夏時間UTC?5 (中部夏時間)

世界遺産
登録名メキシコシティ歴史地区とソチミルコ
区分文化遺産
基準(2), (3), (4), (5)
登録日1987 (第11回)
登録コード412
委員国メキシコ
地域ラテンアメリカ・カリブ海

メキシコシティ歴史地区(メキシコシティれきしちく、スペイン語: Centro Historico de la Ciudad de Mexico)はメキシコシティの中心地区である。単にセントロ(Centro)とも呼ばれる。ソカロ広場を中心とする地区で、西端はアラメダ・セントラルに至る[2]。ソカロはラテンアメリカ最大の広場であり[3]、最大10万人近くを収容することができる[4]

メキシコシティ歴史地区はクアウテモク区の中にあり、面積は9平方キロメートル強である。9000の建築物があるが、うち1550が歴史的重要性のある建物に指定されている。これらの建物の大部分は16世紀から20世紀にかけて建設された[5]

メキシコシティ歴史地区はアステカ帝国の首都であるテノチティトランを16世紀に征服・破壊したスペイン人が、その廃墟に今のメキシコシティを建設しはじめた場所である[3]。アステカおよびヌエバ・エスパーニャ植民地の権力の中心として、歴史地区にはメキシコシティの歴史的建物の大部分が含まれ、また多数の博物館がある。このためにUNESCO世界遺産に指定された[2]
歴史

メキシコシティ歴史地区は1325年に設立されたテノチティトランに大体相当する。スペイン植民地化以前のテノチティトランは計画都市として発展し、東西南北の方向に沿って道路や運河が建設され、整然とした四角なブロックが形作られていた[5]。テノチティトランのある島はテペヤックとイスタパラパを結ぶ南北の大通りと、トラコパンと湖の堤防を結ぶ東西の大通りによって4つのカルプリと呼ばれる地区に分割された。各カルプリの名前はクエポパン、アツァクァルコ、モヨトラ、ソキパンであった。各カルプリはテクパンという議会を持ち、さらに細かく区分されていた。南北と東西の大通りの交点はアステカ世界の中心で、ここにテンプロ・マヨールトラトアニ(皇帝)たちの宮殿、貴族たちの宮殿があった。また2種類の学校があり、テルプチカリでは世俗の学問が学ばれ、カルメカクでは神官になるための訓練が施された。スペイン人が到来した時には、モクテスマ1世アウィツォトルによって敷設された水道や、都市の東部に建設された巨大な堤防があった[6]

スペイン人による征服の後、メキシコシティの建設を監督した主要な人物であるアロンソ・ガルシア・ブラボの努力のおかげで、都市の設計は基本的に変化を被らなかった。古い大通りは保存され、テナユカ通りはバイェホ通り、トラコパン通りはメヒコ=タクバ通り、テペヤック通りはミステリオス通りと改称された。また4つの地区名にはキリスト教の聖人の名が前に加えられ、サンフアン・モヨトラ、サンタマリア・トラケチワカン、サンセバスティアン・アツァクァルコ、サンペドロ・テオパンと呼ばれるようになった。歴史的地区の大部分は破壊されたテノチティトランの瓦礫を使って建設された[5]

17-18世紀にスペイン人は主に鉱業と商業によって大きな富を蓄積した。この富によってイトゥルビデ宮殿やタイルの家 (Casa de los Azulejos) のような邸宅が歴史地区のあちこちに建設された。タイルの家は16世紀にアラブ様式で建てられたが、1747年にオリサバ盆地伯爵の注文によってプエブラのタラベラ・タイルが加えられた[7]

20世紀前半、公共教育相のホセ・バスコンセロスによって、ソカロの北および西の街路の名前の多くがラテンアメリカの国の名前に改称された[8]
主要な歴史的遺産
ソカロ周辺詳細は「ソカロ」を参照

ソカロは中央広場であり、文化的・政治的イベントの場として使われてきた。ソカロの東にある国立宮殿メキシコの大統領官邸、連邦財務省、国立公文書館として使われ、壁画によっても知られる。国立宮殿は1521年以降モクテスマ2世の宮殿の跡に、アステカ時代の建物に使われていたテソントレ (tezontle) の石を使って建てられた。本来はエルナン・コルテスの家族の所有物だったが、スペイン王が購入し、メキシコ独立までヌエバ・エスパーニャ副王の公邸として使われた。ソカロに面する中央のバルコニーの上にはドロレスの鐘が置かれ、毎年9月15日に独立を祝うために大統領によって鳴らされる[2]

メトロポリタン大聖堂聖母の被昇天にささげられた聖堂で、ソカロの北にある。アステカ時代には聖域の一部をなし、主要なツォンパントリ(頭蓋骨置き場)があった。最初の教会は1524年か1526年から1532年にかけて建設され、教皇クレメンス7世によって1530年9月2日に大聖堂の地位が与えられた。建物は地盤沈下の被害を受け、1989年から2000年にかけて調整のための作業が進められた。作業中に置かれて内部を醜くしていた一時的な支柱は2000年11月28日にすべて取りのぞかれた[2]

テンプロ・マヨール遺跡および附属する博物館は古代の神殿であり、ソカロの北東に位置する。1520年代にエルナン・コルテスによって破壊され、その後は忘れられていた。20世紀はじめに遺跡の位置が判明したが、電気工事中にアステカの女神コヨルシャウキを描いた重さ8トンの石の円盤が発見されたのを契機に1978年に発掘の決定がなされ、複数の層からなるピラミッドが発掘された。ここは伝説によればメシカがノパル(サボテン)の上にヘビをくわえた鷲が止まっているのを見た場所であり、この様子は今もメキシコの象徴として使われている[2]

国営質店 (Nacional Monte de Piedad) の建物は1775年に建設され、世界最大の中古屋である[2]

国立宮殿

大聖堂

国営質店

テンプロ・マヨール

北部サントドミンゴ教会

サントドミンゴ教会および附属する広場は、メトロポリタン大聖堂の3ブロック北にあり、ヌエバ・エスパーニャ最古の修道院の残りである[2]

コレヒオ・デ・サン・イルデフォンソはメキシコ壁画運動が始められた場所とされる[9][10]


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