メキシコシティの戦い
Battle for Mexico City
戦争:米墨戦争
年月日:1847年9月8日-15日
場所:メキシコシティ連邦地区
結果:アメリカ軍の決定的勝利
交戦勢力
アメリカ合衆国 メキシコ合衆国
指導者・指揮官
ウィンフィールド・スコットアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ
戦力
7,157名16,000名
損害
戦死139名
負傷876名[1]戦死および負傷4,000名
捕虜3,000名[1]
米墨戦争
テキサス砦
パロ・アルト
レサカ・デ・ラ・パルマ
カニョンシト
サンタフェ
モンテレー
第一次タバスコ
メキシコシティの戦い(メキシコシティのたたかい、英:Battle for Mexico City)は、米墨戦争の1847年9月8日から15日に、メキシコシティの近く全体で行われた一連の戦闘のことである。これにはモリノ・デル・レイの戦いとチャプルテペクの戦いを含み、メキシコシティの陥落で頂点に達した。 メキシコ中央でのアメリカ軍の作戦はメキシコシティの占領を目指していた。3月にベラクルスの港を包囲して陥落させたことで、ウィンフィールド・スコット将軍は1つの基地を確保でき、内陸に進軍してセルロ・ゴードの戦いでメキシコ軍大部隊を破った。チュルブスコの戦いでメキシコ軍を壊走させると、スコット軍は目標とするメキシコシティまでわずか5マイル (8 km) を残すのみとなった。 セルロ・ゴードやチュルブスコでは敗れたものの、アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ軍は無傷で残っており、スコット軍の勢力を上回っていた。 9月8日、メキシコシティに向けた戦いが始まった。スコットはメキシコシティ郊外約2マイル (3 km) 以上の所にある「モリノ・デル・レイ」(王の工場)に大砲の鋳造所があると考えた。スコットはウィリアム・J・ワース将軍の第1師団を派遣して、その鋳造所の占領と破壊を行わせることにした。ワースはチャプルテペク城を攻撃範囲に含めたいと考えたが、スコットがこれを拒否し、スコットとワースの間の苦々しいライバル関係が始まった。 その結果として起こった戦闘では両軍とも大きな損失を出し、ワース隊がメキシコ軍を追い出し、チャプルテペクの部隊とは分離させた。 この戦闘でアメリカ軍には意義ある軍事的利益を生まなかった。 メキシコシティに対する主力攻撃は数日後の9月12日となった。メキシコシティは当時メキシコ軍士官学校として使われていたチャプルテペク城が守備の一翼を担っていた。スコットは12日の終日砲撃を加えた後で歩兵による襲撃を行わせることとした。 翌9月13日、ジョン・A・クイットマンの第4師団がチャプルテペク城に対する攻撃の先鋒となりこれを落とした。後にアメリカ連合国の将軍になったジョージ・ピケットやジェイムズ・ロングストリートもこの攻撃に参加した。メキシコ軍守備隊に加わっていたのは士官候補生たちであり、後にロス・ニーニョス・エロエス(英雄的士官候補生)として記念されることになった。メキシコ軍はチャプルテペク城から撤退し、メキシコシティ内に退いた。 クイットマン師団は、メキシコ軍テレス将軍とガレイ大佐が3門の大砲で守る「ベレン門」に向かってベレン舗道を下り、一方ワース師団は、メキシコ軍のランゲル将軍の歩兵旅団(グラナデロス大隊、第1軽連隊、第3系連隊の一部(エチェガレイ中佐))が3門の大砲と榴弾砲で守るさらに北の「サン・コスメ門」に向かってベロニカ舗道を進んだ。クイットマン隊は単にシティに対する陽動攻撃を意図されていたが、その全師団を前進させて守備陣を突破させた。サンタ・アナは怒りに任せてベレン門に到着し、前線指揮官を解任した。 一方ワース師団はメキシコ軍騎兵隊の攻撃を撃退した後でメキシコ軍に対しては緩りとした出発になった。ワースがサン・コスメ門に到着した時、メキシコ軍守備隊の準備が不十分であることが分かったが、メキシコ軍守備隊はその門が落ちるまでにかなり善戦した。
背景
戦闘
モリノ・デル・レイ詳細は「モリノ・デル・レイの戦い」を参照
チャプルテペクチャプルテペクの戦い、ジェイムズ・ウォーカー画詳細は「チャプルテペクの戦い」を参照
サン・コスメ門とベレン門への攻撃