メガリ・イデア
[Wikipedia|▼Menu]
セーヴル条約によるギリシャ領(赤)および国際管理地(斜線部)。この後、エレフテリオス・ヴェニゼロスはメガリ・イデア実現のためアナトリア半島へ侵攻を始め、希土戦争が始まった。ギリシャ軍はケマル・アタテュルク率いるアンカラ政府のトルコ軍の反攻を招き、アナトリア半島の獲得地を失うことがローザンヌ条約によって確定した。 パリ講和会議(1919年)でフランスとギリシャが提案したギリシャ領ギリシャの領土拡大。その後の希土戦争の結果として、セーヴル条約による獲得地を失うことがローザンヌ条約によって確定した。

メガリ・イデア(ギリシア語: Μεγ?λη Ιδ?α 「偉大なる思想」の意。ギリシア語ラテン翻字: Megali Idea)は、ギリシャ王国の国王オソン1世によって唱えられた、ビザンツ帝国の復興を目指した[1]国家主義ギリシア民族主義民族統一主義)思想。ギリシャ化したヴラフ人アリ・パシャの息子の侍医であったイオアニス・コレッティスが初めて用いた[2]。大ギリシャ主義とも[3]
概要

具体的にはギリシア人の居住する小アジアの全地域(コンスタンティノポリス黒海南岸のトラブゾンを中心とするポントス地方、内陸部のカッパドキア)など近東のギリシャ人居住区域は、すべて「ギリシア」に帰属すべきであるとの主張である[4][# 1]

さらに、コレッティスによれば首都はコンスタンティノポリスに、経済的中心はアテネに置かれる。またギリシア正教会の旗のもとに、全てのギリシア人はその居住地(トルコ領、東ルメリア等の主権の地域を含む)を「ギリシア国」の版図の主権の「大ギリシア国」のもとに統合され、保証され、担保される。というものだった[5]
歴史

ギリシャ王国内の住民だけがギリシャ人というのではなく、ギリシャの歴史、ギリシャ民族と関連する国の住民は全てギリシャ人であり、アテネとコンスタンティノープルがその中心である、としていた。当時のオスマン帝国による統治下のバルカン半島ではセルビア人ルーマニア人ブルガリア人アルバニア人らも同じく自らの領域を拡大することを考えていたが、彼らが比較的まとまった地域で集団と化しているのに対してギリシャ人らは広範囲に拡散しており、西はヴロラ(アルバニア)から東はヴァルナ(ブルガリア)の間で各民族と混合しながら住んでいた。さらにギリシャ王国成立時にはギリシャ領土も現在よりかなり小さいものであった。一方、オスマン帝国首都コンスタンティノポリス、マルマラ海沿岸、小アジア西部沿岸(スミルナ)、カッパドキアアナトリア、そしてポントス地方にまでギリシャ人らは定住していた[# 2][5]

オソン1世はクリミア戦争時にも「メガリ・イデア」を支持、これにともないギリシャもオスマン帝国の敗北を契機としてテッサリアイピロスマケドニア地方(当時はギリシャ領ではなかった)へ攻め込んだが、オスマン帝国の弱体化を恐れたヨーロッパ列強がオスマン帝国の保全に尽くし(東方問題)、イギリスとフランスがピレウス港を封鎖、結局、ギリシャはこれに屈せざるを得ず、オソン1世はこれを契機にヨーロッパ列強の支持を失い、ギリシャ王を退位することとなる[6][7]

しかし、ギリシャは列強の利害関係から発生する対立を利用して領土拡大に成功、1864年にはイオニア諸島を、1881年にはテッサリアとイピロス南部の一部を平和裏に手に入れた。しかし、クレタ島ではキリスト教徒らによる蜂起が1866年に発生して以来戦争が続き、流血を伴った上で第一次バルカン戦争終了後の1913年にギリシャ領土となった[8]。さらにマケドニアも諸民族の係争の地と化しており、独立を果たしたばかりのセルビア、ブルガリアらとマケドニアの支配を巡って争うこととなる[9]ギリシャ王国はギリシャの一部分で極最小で最貧な一部であり、ギリシャ全体ではない。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:34 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef