メイベル・カーター
1960年代
基本情報
出生名Maybelle Addington
生誕 (1909-05-10) 1909年5月10日
アメリカ合衆国バージニア州ニッケルズヴィル
“マザー”・メイベル・カーター("Mother" Maybelle Carter、出生名Maybelle Addington、1909年5月10日 ? 1978年10月23日)は、アメリカ合衆国のカントリー・ギタリストで「カーター・スクラッチ(英語版)」の創始者[1]。1920年代後半から1940年代前半まで活動していたオリジナルのカーター・ファミリーのメンバーとして最もよく知られるとともに、カーター・シスターズのメンバーおよびマザー・メイベルとしても知られている[2]。 メイベル・カーターはバージニア州ニッケルズヴィル
バイオグラフィー
1926年3月13日、メイベルはエズラ・カーター(英語版)と結婚した。夫妻はヘレン(英語版)、ジューン、アニタ(英語版)の3人の娘を儲けた[2]。
メイベルはやはりトリオの一人だった従姉のサラ(英語版)と結婚していた義理の兄であるA.P.カーターが1927年に結成したオリジナルのカーター・ファミリーのメンバーだった。カーター・ファミリーは最初期の農村のカントリー・ミュージック・グループの一つだった。オートハープとバンジョーも弾いていたメイベルは、グループのギタリストとなり、親指を使って低音弦と中音弦でメロディを奏で、人差し指でリズムを鳴らすという自身が考案したスクラッチ(英語版)でグループに独特のサウンドを生み出した[2]。今日までカーター・スクラッチとして知られるこの革新的なテクニックは、ギターをリズム楽器からリード楽器へ移行へ影響を与えた[4]。
彼女は1950年代前半のグランド・オール・オープリーのコミュニティで幅広く尊敬されるとともに愛され、当時はまだ40代だったが「マザー・メイベル」として、カントリー・ミュージック界の母親像として知られていた。メイベルと娘たちは1940年代から1960年代にかけて「カーター・シスターズ・アンド・マザー・メイベル」としてツアーを行っていたが、1960年のA.P.カーターの死後は「カーター・ファミリー」のグループ名を復活させ、たびたびジョニー・キャッシュ(メイベルの義理の息子)とともにツアーを行い、1969年から1971年にかけて、グループはキャッシュの毎週のネットワークのバラエティ番組にレギュラー出演していた。1960年代のフォークブームの最中に、メイベルはカーター・ファミリーの元メンバーのサラと短期間合流し、以前と同じようにサラがリードを歌い、メイベルがハーモニーを担当した。
メイベル・カーターは1960年代と1970年代に時たまソロでもレコーディングし、通常はフル・レングスのアルバムだった。2枚組でコロムビア・レコードからリリースされた彼女の最後のこのような作品は、彼女が64歳の1973年にビルボードの最多販売カントリー・アルバム・チャートに入った。メイベルはニッティー・グリッティー・ダート・バンドの1972年のレコード『永遠の絆』にも参加している。
メイベルは数年間の健康不良のあとで1978年に他界し、テネシー州ヘンダーソンヴィルのヘンダーソンヴィル・メモリー・ガーデンで夫のエズラの隣に埋葬された。娘たちのうちの2人、ヘレン(英語版)とアニタ(英語版)も同じ墓所の近くに埋葬されている[5]。 書き留められた公演中のカーターの声明によれば、楽器を購入した13歳でギターの練習を始めた[6]。カーターは、全国的に露出した初期の白人女性ギタリストとして、カントリー・ミュージックでギターをリード楽器としての使用について言及され、しばしば先駆的なミュージシャンとして引き合いに出されている[7][8]。著作家たちはメイベル・カーターが演奏していた少なくとも3ないし4種類の演奏スタイルを特定している。カーターは、時には5フレット分もギターを低く調弦していたが、時には楽器の音域を上げるためにカポタストを使用していた[6][9]。カーターの最も有名で広く録音されたスタイルは、時に「カーター・スクラッチ」ないし「サム=リード・スタイル」と呼ばれている。このテクニックは楽器の低音側の3本の弦でメロディを弾くのと同時にリズムのために高音側の3本の弦をかき鳴らすというものである。カーターは演奏に際してサムピックとフィンガーピックを使用していた。 後に他のミュージシャンによって広められたもう一つのスタイルは、実質的にサム=リード・スタイルの裏返しである。このスタイルでは、カーターは高音弦で指でメロディを弾くとともに、リズムを低音弦を親指でこする。カーターが初めてアフリカ系アメリカ人のミュージシャンのレスリー・リドル
音楽家として(英語版)、バンジョーを演奏していた。
ギター
カーターは、自身の代表的なギター作品の Wildwood Flower を、オリジナルの1928年のバージョンを手始めに何度も録音した。オリジナル・カーター・ファミリーと1930年に録音したThe Cannon Ball は親指でベースを弾くカーターのフィンガーピッキングの良い例示である。彼女の最後のスライド・ギター・スタイルは1931年の My Old Cottage Home である。デッカ向けに録音した Caol Miner's Blues は素晴らしいフラットピッキングの実例である[13][9]。カーター・シスターズとのレコーディングでのカーターによる興味深いギターの使い方としては、"Fourteen Karat Nothing"、"I'm Working on a Building"、"Take Good Care of Him"、"Waves on the Sea" の速いテンポの再録音、 "I'll be All Smiles Tonight" での現代的なサウンドの改訂版などがある。カーターは、自身のソロ・レコーディングでもギターを演奏した。
Cumberland Gap、Victory Rag、Red Wing、Sweet Allie Lee はカーターの様々なソロ・アルバムからのインストゥルメンタルの好例である[14][15]。 録音された初期のカントリー・ミュージックではオートハープはあまり目立っていない。
オートハープ