メアリー・ルー・レットン
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メアリー・ルー・レットン
Mary Lou Retton

「フィジカル・フィットネスとスポーツに関する大統領諮問機関」のメンバーとしてのメアリー・ルー・レットンのポートレート
選手情報
フルネームメアリー・ルー・レットン
国籍 アメリカ合衆国
生年月日 (1968-01-24) 1968年1月24日(56歳)
生誕地ウェストバージニア州フェアモント
身長146cm
種目体操競技
引退1985年

獲得メダル

体操競技
夏季オリンピック
1984年個人総合
1984年団体総合
1984年跳馬
1984年段違い平行棒
1984年ゆか


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メアリー・ルー・レットン(Mary Lou Retton、1968年1月24日 - )は、アメリカ合衆国の元女子体操選手。オリンピックの女子体操競技において、個人総合タイトルを東ヨーロッパ以外の選手が獲得したのは彼女が初めてであった。
来歴
私生活

レットンはウェストバージニア州フェアモントイタリア系の家庭に生まれた(彼女の家族の原語による姓は「Rotunda」である[1])。父親のロニーは石炭産業の輸送設備会社を経営していた[2]

彼女は2008年12月現在、テキサス州ヒューストンに住んでいる[3]。ヒューストンの不動産業者シャノン・ケリーと結婚し、シェーラ・レイ (1995年 - )、マッケナ・レーン (1997年 - )、スカイラ・ブレイ (2000年 - )、エマ・ジーン (2002年 - ) の4人の娘がいる[4]
体操競技ロナルド・レーガン大統領、オリンピックアメリカ選手団と(1984年)

レットンはテレビで観たナディア・コマネチに影響を受け、地元フェアモントで体操を始めた。彼女はゲイリー・ラファロスキー(エアリアル・ポート・ジムナスティックス)のコーチを受けた。その後彼女はルーマニア人のベラ・カロリーとマルタ・カロリー夫妻の指導を受けるために、テキサス州ヒューストンに居を移す決意をする。夫妻はアメリカ合衆国に亡命する以前はコマネチのコーチをしていた。カロリー夫妻のもと、レットンはすぐに国内で頭角を現し始めた。1983年のアメリカン・カップに勝ち、同年のUSナショナルズでもダイアン・ダラム(もう一人のカロリーの教え子)に次いで2位に入った。しかしレットンは手首の負傷により1983年の世界選手権出場は見合わせた。それでもレットンは1983年の日本の由緒ある中日カップと1984年の全米クラシックで勝利を収めた。

1984年にアメリカン・カップに連覇し、全米選手権と全米オリンピック選考会も制した後、レットンは手術を余儀なくされる負傷をひざに負った。しかし1984年のロサンゼルスオリンピックまでには回復し、間に合わせる事ができた。大会(ルーマニアを除くソビエト圏の国によりボイコットされた)では、全米の観衆の期待の前でレットンは個人総合タイトルでルーマニアのエカテリーナ・サボーと接戦を演じた。段違い平行棒平均台で遅れを取りサボーを追うレットンは、続くゆか跳馬で満点の10点を叩き出し、僅か0.05ポイントの差でタイトルを勝ち取った。このオリンピックでレットンは更に4個のメダルを獲得した。団体総合と跳馬の銀、及びゆか段違い平行棒の銅である。この活躍により、彼女はスポーツ・イラストレイテッド誌より「スポーツウーマン・オブ・ザ・イヤー」の称号を授けられた。彼女はウィーティーズのパッケージに登場し、このシリアル食品の初の公式スポークスウーマンになった。彼女の小柄な体格(身長146cm[1])はSPORT誌でジョークのネタにされた。曰く「彼女の実物大の写真はウィーティーズの箱で見る事ができます。」
オリンピック後

信心深いバプティスト[5]、熱心なキリスト教右派であるレットンはレーガン政権の率直な支持者だった。人気絶頂の時にロナルド・レーガンを支援する様々なテレビ広告に出演した。レットンは2004年の共和党全国大会の第2夜に、同僚の元体操選手で1996年アトランタオリンピックの金メダリスト、ケリー・ストラグとともに忠誠の誓いを述べた[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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