ムハンマド4世_(ナスル朝)
[Wikipedia|▼Menu]

ムハンマド4世
??? ??? ???? ???? ?? ???????
グラナダのスルターン
在位
1325年7月8日 - 1333年8月25日

全名アブー・アブドゥッラー・ムハンマド・ブン・イスマーイール
出生1315年4月14日
ヒジュラ暦715年ムハッラム月7日
グラナダ
死去1333年8月25日
ヒジュラ暦733年ズルヒッジャ月13日
グアディアロ川(英語版)河口付近
埋葬マラガ
王朝ナスル朝
父親イスマーイール1世
母親アルワ
宗教イスラーム教
テンプレートを表示

ムハンマド4世(アブー・アブドゥッラー・ムハンマド・ブン・イスマーイール, アラビア語: ??? ??? ???? ???? ?? ???????‎, ラテン文字転写: Ab? ?Abd All?h Mu?ammad b. Ism???l, 1315年4月14日 - 1333年8月25日)は、第6代のナスル朝グラナダ王国の君主である(在位:1325年7月8日 - 1333年8月25日)。

1325年7月にイスマーイール1世が暗殺され、イスマーイール1世の10歳の息子であるムハンマドがムハンマド4世として即位した。しかし、まだ幼少であったことから当初は祖母のファーティマ(英語版)や大臣たちが政務を後見した。即位から間もなくワズィール(宰相)のムハンマド・ブン・アル=マフルーク(英語版)とアル=グザート・アル=ムジャーヒディーン[注 1]の司令官のウスマーン・ブン・アビー・アル=ウラー(英語版)が対立し、アルメリアに逃れたウスマーンがムハンマド4世の叔父にあたるムハンマド・ブン・ファラジュを対抗のスルターンに擁立したことで内戦が始まった。ウスマーンは北方のキリスト教国であるカスティーリャ王国アルフォンソ11世から支援を得た一方で、ムハンマド4世はモロッコマリーン朝を統治するアブー・サイード・ウスマーン2世に支援を求めた。若年にもかかわらず内戦中に統治権を行使し始めたムハンマド4世は最終的にウスマーンと和解し、ムハンマド・ブン・アル=マフルークの殺害を命じることで1328年に内戦を終結させた。

その後、アラゴン王国アルフォンス4世がアルフォンソ11世と反ナスル朝の同盟を結び、両国は1330年にナスル朝に侵攻した。戦争によって農村地帯が荒廃し、領内が食糧難に陥ったためにムハンマド4世は講和を求め、1331年2月に毎年貢納金を支払うことを条件にカスティーリャと平和条約を結んだ。しかし、すぐにアルフォンソ11世が条約で認められたナスル朝への食糧の輸出を停止し、条約に加わらなかったアラゴンとの戦争も続いたことから、ムハンマド4世は1332年9月に支援を求めてフェズのマリーン朝の宮廷に向かった。マリーン朝のスルターンのアブル=ハサン・アリーは支援の要請に応え、1333年初頭に5,000人の軍隊をアルヘシラスへ派遣した。マリーン朝は1333年6月にカスティーリャが支配するジブラルタルを降伏させることに成功したものの、救援に向かったアルフォンソ11世の軍隊によって逆にジブラルタルを包囲された。ムハンマド4世はジブラルタルの救援に向かい、カスティーリャ軍と交戦したが、最終的に1331年の条約を再確認する形で1333年8月24日に停戦が成立した。しかし、その翌日にムハンマド4世はマリーン朝との同盟、あるいはカスティーリャへの友好的な態度に不満を抱いたウスマーン・ブン・アビー・アル=ウラーの息子たちの指図によって暗殺された。その後はムハンマド4世の弟のユースフ1世が後継者となった。
背景1360年時点のイベリア半島の勢力図。南部の茶色の部分がナスル朝。

ナスル朝は1230年代にムハンマド1世(在位:1238年 - 1273年)によって建国されたイベリア半島で最後のイスラーム国家であった[3]。また、北のカスティーリャ王国モロッコのイスラーム王朝であるマリーン朝という二つの大きな隣国に挟まれていたにもかかわらず、外交と軍事的な戦略を組み合わせることによって独立を維持することに成功した。ナスル朝はいずれかの勢力によって支配されることを避けるために、両者と断続的に同盟関係を結ぶか、時には武力に訴え、さもなければ両者が互いに戦うように仕向けていた[4]。ナスル朝のスルターンはしばしばカスティーリャにとって重要な収入源となっていた貢納金を支払ったが、これはナスル朝にとっては重い負担であった[5]。また、カスティーリャの視点ではナスル朝の君主は国王の臣下であったが、イスラーム教徒は史料の中で決してそのような関係にあるとは説明しなかった。実際にはムハンマド1世は時と場合に応じて他の異なるイスラーム教徒の君主に対しても忠誠を宣言していた[6]

ナスル朝、カスティーリャ、そしてマリーン朝の間では13世紀の最後の数十年から14世紀の半ばに至るまで、アルヘシラスジブラルタルタリファといったイベリア半島と北アフリカの間の往来を制御する戦略的に重要なジブラルタル海峡の港の支配をめぐる争いが続いた。現代の歴史家はこの争いを「海峡の戦い(英語版)」(Batalla del Estrecho)と呼んでいる[7][8]。ムハンマド4世が即位した当時、カスティーリャは1309年に起きた包囲戦(英語版)以降手にしていたジブラルタルの支配を維持しており、ジブラルタルに近いアルヘシラスへの交通を妨害していた。一方でアルヘシラスを支配していたナスル朝もカスティーリャが支配するタリファなどからジブラルタルへ向かう交通を妨げていた[9]。イベリア半島のもう一つのキリスト教国であるアラゴン王国は、1321年にナスル朝と結んだ条約以降ナスル朝との良好な関係を維持していた。また、この時の条約にはイスラーム教徒の支配地への移住を希望するアラゴン領内のイスラーム教徒の移動の自由を認める条項が含まれていた[10][11]
出自と即位までナスル朝のスルターンの系図。ムハンマド4世はイスマーイール1世の暗殺後に祖母にあたるファーティマの支持によってスルターンに即位した。

ムハンマド4世として知られるアブー・アブドゥッラー・ムハンマド・ブン・イスマーイールは、グラナダで1315年4月14日(ヒジュラ暦715年ムハッラム月7日)にキリスト教徒の母親のアルワと叔父のナスルを追放してスルターンに即位したイスマーイール1世(在位:1314年 - 1325年)の間に長男として生まれた[12]。父親のイスマーイール1世は1325年7月8日(ヒジュラ暦725年ラジャブ月26日)に親族のムハンマド・ブン・イスマーイール(ムハンマド4世とは同名の別人)によって暗殺された[13][14]。14世紀のナスル朝の歴史家であるイブン・アル=ハティーブとカスティーリャの『アルフォンソ11世年代記』によれば、暗殺の直接的な動機は個人的な不満によるものだった[15]。さらにカスティーリャの年代記は、ナスル朝の軍務に服していた北アフリカ出身者によって構成された軍隊であるアル=グザート・アル=ムジャーヒディーンの司令官(シャイフ・アル=グザート)のウスマーン・ブン・アビー・アル=ウラー(英語版)が影で暗殺の糸を引いていたと記している[16]

暗殺時に襲撃に加わったムハンマド・ブン・イスマーイールとその兄弟は即座に捕えられて殺害されたが、ウスマーンは罪には問われなかった[14]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:103 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef