アブー・アブドゥッラー・ムハンマド・イブン・ユースフ・イブン・ナスル(英語: Abu Abdullah Muhammad ibn Yusuf ibn Nasr 1195年頃 ? 1273年1月22日)、アブー・アブドゥッラー・ムハンマド1世(アラビア語: ??? ??? ???? ???? ?????)、通称イブン・アフマル(アラビア語: ??? ??????, イブン・アル=アフマル)、ガーリブ・ビッラー(アラビア語: ?????? ????? ,「神の恩寵による勝利者」の意)[2][3] は、グラナダ王国の建国者で、その支配王朝であるナスル朝の創始者。グラナダ王国は、後にイベリア半島に残る最後のイスラーム教国となる。 711年にウマイヤ朝が西ゴート王国を滅ぼして以降、イベリア半島の大部分はイスラーム教徒の諸王朝に支配され、その地域はアンダルスと呼ばれた。しかし次第に半島北部からキリスト教諸国(ポルトガル王国、カスティーリャ王国、アラゴン王国など)がレコンキスタを強力に推し進め、ムハンマド1世の時代の13世紀にはすでにイスラーム教圏を圧迫するようになっていた。 1232年、ムハンマド1世は自身の出身地アルホナ
概要
その後18年間にわたり、ムハンマド1世はカスティーリャの対ムスリムを含む戦争を支援しながら、自分の領土の支配を固めていった。1264年、ムハンマド1世はカスティーリャ内のムスリム反乱を支援してカスティーリャと決別するも失敗に終わり、さらにムハンマド1世の側でも同盟者アシュキールーラ家が反乱を起こした。これがカスティーリャ王アルフォンソ10世の手引きによるものだと知ったムハンマド1世は、カスティーリャの将軍ヌーニョ・ゴンザレス・デ・ララを説得してアルフォンソ10世への反乱を起こさせた。ムハンマド1世は最後までカスティーリャやアシュキールーラ家と戦い続けたが、1273年に落馬事故により死去した。グラナダ王国は息子のムハンマド2世に引き継がれた。
ムハンマド1世が創設したグラナダ王国とナスル朝は、2世紀にわたり存続してイベリア半島最後のイスラーム国となり、最終的に1492年にカスティーリャに併合された。ムハンマド1世がグラナダに建設したアルハンブラ宮殿は、彼の後継者たちにより増築や要塞化が進められながらグラナダのアミールの居住地として発展し続け、現代に伝えられるグラナダ王国の文化技術の粋となった。
出自と前半生ムハンマド1世の時代のイベリア半島南部。緑色の範囲が、ムハンマド1世が建国したグラナダ王国。
ムハンマド・イブン・ユースフは1195年[4]、グアダルキビール川の南岸で当時ムスリム勢力の最前線に位置していた小さな町アルホナ(現ハエン県)に生まれた[5]。彼は低い身分の出自で、カスティーリャの第一総合年代記によれば、彼は「雄牛と犂を追いかける以外の何の仕事も」持っていなかった[6]。後に彼の一族はバヌー・ナスルあるいはバヌー・アル=アフマルとして知られることになる[7]。後のグラナダの歴史家・大臣イブン・アル=ハティーブによれば、彼の一族は預言者ムハンマドのサハーバの一人でハズラジ族出身のサアド・イブン・ウバダーの子孫であるという。サアドの子孫はイベリア半島に移住し、アルホナで農民になったという[8]。