ムハンマド1世_(ナスル朝)
[Wikipedia|▼Menu]

ムハンマド1世
グラナダスルタン
アルホナのターイファ
ムデハルの反乱で軍勢を率いるムハンマド1世(赤い上着と盾を持つ人物)。同時代の聖母マリアのカンティガ集の挿絵
グラナダのスルタン[注釈 1]
在位期間
1238年頃 ? 1273年1月22日
次代ムハンマド2世
アルホナのターイファ
在位期間
1232年7月16日 ? 1244年頃

出生1195年頃
アルホナ
死亡1273年1月22日(1273-01-22)(77?78歳)
グラナダ王国
埋葬アルハンブラ
王室ナスル家
子女
ムハンマド2世
信仰スンナ派
テンプレートを表示

アブー・アブドゥッラー・ムハンマド・イブン・ユースフ・イブン・ナスル(英語: Abu Abdullah Muhammad ibn Yusuf ibn Nasr 1195年頃 ? 1273年1月22日)、アブー・アブドゥッラー・ムハンマド1世(アラビア語: ??? ??? ???? ???? ?????)、通称イブン・アフマル(アラビア語: ??? ??????‎, イブン・アル=アフマル)、ガーリブ・ビッラー(アラビア語: ?????? ????? ,「神の恩寵による勝利者」の意)[2][3] は、グラナダ王国の建国者で、その支配王朝であるナスル朝の創始者。グラナダ王国は、後にイベリア半島に残る最後のイスラーム教国となる。
概要

711年ウマイヤ朝西ゴート王国を滅ぼして以降、イベリア半島の大部分はイスラーム教徒の諸王朝に支配され、その地域はアンダルスと呼ばれた。しかし次第に半島北部からキリスト教諸国(ポルトガル王国カスティーリャ王国アラゴン王国など)がレコンキスタを強力に推し進め、ムハンマド1世の時代の13世紀にはすでにイスラーム教圏を圧迫するようになっていた。

1232年、ムハンマド1世は自身の出身地アルホナで当時のアンダルスの事実上の支配者だったイブン・フードに対し反乱を起こした。最終的にイブン・フードの宗主権を認めさせられたものの、アルホナとハエンを維持することができた。1236年にはイブン・フードを裏切ってカスティーリャ王フェルナンド3世と同盟し、グラナダなどアンダルス西南部の諸都市を征服していった。しかし1244年にカスティーリャと戦って敗れ、アルホナとハエンをカスティーリャに明け渡した。そこでムハンマド1世はグラナダを新たな拠点と定め、フェルナンド3世の宗主権を認めるのと引き換えに20年の和平を結んだ。

その後18年間にわたり、ムハンマド1世はカスティーリャの対ムスリムを含む戦争を支援しながら、自分の領土の支配を固めていった。1264年、ムハンマド1世はカスティーリャ内のムスリム反乱を支援してカスティーリャと決別するも失敗に終わり、さらにムハンマド1世の側でも同盟者アシュキールーラ家が反乱を起こした。これがカスティーリャ王アルフォンソ10世の手引きによるものだと知ったムハンマド1世は、カスティーリャの将軍ヌーニョ・ゴンザレス・デ・ララを説得してアルフォンソ10世への反乱を起こさせた。ムハンマド1世は最後までカスティーリャやアシュキールーラ家と戦い続けたが、1273年に落馬事故により死去した。グラナダ王国は息子のムハンマド2世に引き継がれた。

ムハンマド1世が創設したグラナダ王国とナスル朝は、2世紀にわたり存続してイベリア半島最後のイスラーム国となり、最終的に1492年にカスティーリャに併合された。ムハンマド1世がグラナダに建設したアルハンブラ宮殿は、彼の後継者たちにより増築や要塞化が進められながらグラナダのアミールの居住地として発展し続け、現代に伝えられるグラナダ王国の文化技術の粋となった。
出自と前半生ムハンマド1世の時代のイベリア半島南部。緑色の範囲が、ムハンマド1世が建国したグラナダ王国。

ムハンマド・イブン・ユースフは1195年[4]、グアダルキビール川の南岸で当時ムスリム勢力の最前線に位置していた小さな町アルホナ(現ハエン県)に生まれた[5]。彼は低い身分の出自で、カスティーリャの第一総合年代記によれば、彼は「雄牛と犂を追いかける以外の何の仕事も」持っていなかった[6]。後に彼の一族はバヌー・ナスルあるいはバヌー・アル=アフマルとして知られることになる[7]。後のグラナダの歴史家・大臣イブン・アル=ハティーブによれば、彼の一族は預言者ムハンマドサハーバの一人でハズラジ族出身のサアド・イブン・ウバダーの子孫であるという。サアドの子孫はイベリア半島に移住し、アルホナで農民になったという[8]。若いころのムハンマド・イブン・ユースフは、国境地帯で指導力を発揮し活躍するとともに、その禁欲主義ぶりもよく知られていた。彼は統治者となったのちも禁欲生活を維持している[5]

ムハンマド1世はイブン・アル=アフマル[9]、あるいは彼のクンヤからアブー・アブドゥッラーという名でも知られている[3]
家族

ムハンマド1世はおそらく1230年以前、まだアルホナにいた頃に、父方の従姉妹アイーシャ・ビント・ムハンマドと結婚した(ビント・アンム婚)[10]。長男ファラージュ (1230/1年 - 1256年)は若くして亡くなり、ムハンマド1世が相当悲嘆にくれたことが記録されている[11]。他の子には、同じくムハンマド1世の生前に死去したユースフ(生年不詳)やムハンマド(後のムハンマド2世、1235/6年 - 1302年)、それにMu'minaとシャムスという2人の娘がいた[12]。またムハンマド1世の兄弟イスマーイール(1257年没)は、ムハンマド1世によりマラガの総督に任じられている。後のナスル朝のスルタンのうち、イスマーイール1世から始まる系統はこのムハンマド1世の弟の子孫である[13]
イベリア半島の情勢1210年のイベリア半島。この後ムワッヒド朝(茶色)が崩壊し、キリスト教諸国がムスリムの領土を大幅に征服することになる。

13世紀初頭は、イベリア半島においてムスリムの勢力が大きく後退する時代となった[14]アンダルス、すなわち半島南部のムスリム勢力圏は全域が北アフリカのムワッヒド朝に支配されていたが、1224年にカリフユースフ2世が後継者を残さず死去したことで内乱が起き、分裂を起こした[3]。この結果、アンダルスはターイファと呼ばれる小君主あるいは小王国が割拠する状況に陥った[3]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:108 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef