ムハンマド・ナースィル
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ムハンマド・ナースィル
ムワッヒド朝第4代君主
在位1198年 - 1213年

死去1213年

子女ユースフ2世ムスタンスィル
ヤフヤー・ムウタスィム
王朝ムワッヒド朝
父親ヤアクーブ・マンスール
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ムハンマド・ナースィル(محمد الناصر Muhammad al-Nāsir, ? - 1213年)は、ムワッヒド朝の第4代アミール(在位:1198年 - 1213年)。ムワッヒド朝の最盛期を築いた第3代君主ヤアクーブ・マンスールの子。ユースフ2世ムスタンスィルの父。
生涯

父の死後即位したが、ナースィルの治世はムワッヒド朝の創建から80年を経て王朝を支えたタウヒード主義運動への熱意を失わせ、王朝は徐々に弱体化していた。さらに、イベリア半島キリスト教徒たちによる十字軍が結成され、アンダルス(スペイン南部)のムワッヒド朝支配領域を脅かした。

これに対して1212年、ナースィルは自ら大軍を率いてジブラルタル海峡を渡り、トレドまで遠征した。しかし、ラス・ナバス・デ・トロサの戦いで、カスティーリャ王国アルフォンソ8世アラゴン王国ペドロ2世ナバラ王国サンチョ7世らを中心とする連合軍に敗れ、アンダルスに対する支配力を失った。ムワッヒド朝はこの戦いで10万人から50万人と言われる無数の戦死者を出し、かつてマンスールの時代に最盛期を支えた軍はほとんど壊滅した。ナースィルは首都マラケシュに逃げ帰ることができたが、ほとんど政治への意欲を失い、翌年失意のうちに没した。

この敗戦の後、王朝創建の地モロッコでもベルベル人マリーン族が反旗を翻し、さらにアラブ遊牧民の侵攻や有力者間の権力争いなどが激化、ムワッヒド朝は急速に衰えていった。

先代:
ヤアクーブ・マンスールムワッヒド朝
1198年 - 1213年次代:
ユースフ2世ムスタンスィル


更新日時:2018年3月21日(水)08:23
取得日時:2019/01/11 11:46


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